月刊PLAYBOY 2002年5月号

デザイナーベイビーは生まれている?


セックスなしで「優れた」子どもを作ろうとする社会。人間の将来が遺伝子だけで決まってしまう社会。生まれた時点で人間の寿命がわかってLまう社会。SF映画の話ではない。遺伝子操作やES細胞の作製など、日進月歩の生命科学がまさに今、直面している問題なのだ。科学の進歩と社会倫理。その接点を真剣に考えなければならない時代がついにやってきた。


映画『ガタカ』が描く近未来社会とは?

<昔は、10本の手指と10本の足指があることだけが重要だった。今はそうではない。今は、生まれて数秒後に、自分の死の原因と正確な時間がわかってしまう>
これは1997年のアメリカ映画『ガタカ(GATTACA)』の最初に出てくるモノローグだ。遺伝子操作をしないで、つまり通常のセックスによって生まれてきた主人公のビンセントは、生まれた直後、次のような宣告を受ける。
<精神病になる確率60%、うつ病42%、、…心臓病99%、推定寿命30・2歳>
そして、今や「自然な方法」となったやり方で、弟のアントンが生まれる。体外受精の後、子宮に戻す前に、遺伝子検査をし、「最も優れた受精卵」だけを子宮に戻し、産むというやり方だ。

医師は、<遺伝病になる傾向はありません。最初に、性別を決めてください>と両親に伝える。母親は、<ビンセントの遊び相手になる弟がいい>と躊躇しながら答える。医師は、<ハゲ、近視、……暴力性、肥満、そういう傾向になる遺伝子はないほうがいい>とすすめる。父親は、<2,3の要素は運にまかせたほうがいいのではないでしょうか>と逡巡気味に言うが、医師はこう反論する。
<子どもには、可能な限り、ベストなスタートをさせたほうがいい。いずれにしても、そうして生まれてきた子どもこそ「最高のあなた方」なのだから>

ビンセントのモノローグはさらに続く。
<どれほど私がレジュメに嘘を記入しようと関係ない。私の本当のレジュメは私の細胞の中にある。私が開示するのを拒否しても、私が触れたドアの取っ手や握手した後の相手の手や、さらに願書を送ったときの封筒に付着した私の唾液から、検査できるのだ>

この映画は、すでに、DNA操作によって子どもが生まれるのが当たり前になった時代を想定している。従未の方法で生まれてくる人間は、「不適性者」という刻印を捺されてしまうのだ。
<私は、「最下層階級」に属する。もはや、差別は地位や皮膚の色で決まるのではなく、科学の力で生じる。どれほど、私が訓練しても勉強しても、今や世界で通用する最高のテストは、血液検査なのだ>
ビンセントは、小さい頃から宇宙飛行士になる夢を抱いていたが、「不適性者」の彼には、到底かなわない夢であった。そこに遺伝子ブローカーが現れ、優秀な遺伝子を持つ「適性者」でありながら、事故で両足の機能を失った男を紹介する。そこでビンセントは……。

この映画を単なるSFと思ってはいけない。遺伝子操作によって優良な子どもを持とうとする人たちが増え、彼らが人類の新しい階層を形成する時代は、そう遠くはないかもしれないからだ。


『賢いマウス』は生まれた。はたして『賢いヒト』は?

1999年9月7日、米国ニュージャージー州にある名門プリンストン大学分子生物学科の電話は鳴りっぱなしだった。同大学の助教授であるジョー・ツィェンの業績がその日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されたからだ。記事のタイトルは「賢いマウスと、さらに賢い人間について」。ツィエンは、マウスに遺伝子操作を施すことで、記憶のカギを握る細胞の扉を、より長く開けておくのに成功した。彼は「賢いマウス」を作ったのだ。

この記事を読んだ読者の一人は、すぐにツィエンのところに電話をかけてきて、「うちの家族にアルツハイマー病の父親がいるが、何とかして、マウスと同じ技術を使って、記憶力を増強してほしい」という要求をしてきた。博士の電子メールアドレスはインターネットから簡単に入手できたので、そのアドレスにも何百というメールがあっという間に届いたという。また、「最近、記憶力が落ちてきた。うまくいかなくてもいいから、自分の脳で実験をしてほしい」というメールさえ届いた。そのどれもが切実な訴えだったという。

ツィエンは、5年前MIT(マサチューセッツエ科大学)の利根川進研究室で、学習・記憶におけるNMDA受容体の機能を明らかにしようとしたときに、ある遺伝子だけをノックアウト(不活性化)する方法の改良版を開発するのに成功したのだ。
「わかりやすく言えば、その機能を知らなくても自動車のある部品を取ることによって、何が機能しなくなるかわかる。そこから、その部品の機能が推測できる。それと同じ理屈を遺伝子に応用すればいい。特定の遺伝子をノックアウトして、マウスの健康状態や行動の変化を見ると、その遺伝子の機能が推測できる」(ツィエン)

成育に欠かせない遺伝子である場合は、マウスは死んでしまう。このノックアウト法を使えば、遺伝子の機能がわかるので、今では、遺伝子研究の最も基本的な技術になっている。
ツィエンは誇らしげに言う。
「再び自動車に例えれば、時速最高150キロしか出ない車を、300キロ出るように改造したことに似ている。ほとんどの動物でのその部分の機能は似ているので、保証はできないが、人間に応用すれば、学習・記憶力がよくなる可能性は十分にある」
ツィエンは、ヒトヘの応用を見込んで、衝撃的な発表から8ヵ月も経たないうちに、ベンチャー企業家の投資家と組み、サンフランシスコに会社を設立した。その最大の目的は、遺伝子技術を利用して、記憶喪失や痴呆のような中枢神経疾患の治療薬候補を特定することである。


すでに始まっているデザイナー・ペイビー

精子バンクは、今やアメリカではごく当たり前の存在となっている。卵子提供も今では普通に行われている。精子バンクから精子を買うときに、女性たちは精子提供者のプロフィールを吟味する。身長、皮膚の色、学歴は当然だが、SAT(アメリカの大学に入るときの共通テスト)の点数まで要求する人もいるという。さらに極端な話をすれば、遺伝的にはつながっていないが、自分が求める特徴を持つ男性からの精子と女性からの卵子で、、子どもを作ることも可能になっている。人問は本能的に自分に遺伝的につながっている子孫を残そうとするから、そこまでする人は非常に少ないだろラが、より賢い子孫、よりかわいい子孫を望むのは自然な感情だろう。

遺伝子検査がかなり正確に行われるようになってから、精子バンクの審査もますます厳しくなった。サンフランシスコにあるカリフォルニア精子バンクのディレクター、モーラ・リオーダンは、その厳密さをこう説明する。
「すべての精子は、HIVを含め、いろいろなウイルスの検査をするが、半年間凍結されてからも同じ検査をし、そこでクリアされてはじめて合格の第一歩となる。ウイルスの潜伏期間を考慮に入れているからだ。遺伝子検査もかなり厳しくなり、現在調査可能な遺伝病に関係する遺伝子はすべて検査する。最終的に合格する精子は5%に満たない」

プリンストン大学で、ツィエンと同じ分子生物学を専門にするリー・シルヴァー教授は、こう語る。
「ここで、人が求めているのは、遺伝子上の決定論だ。しかし、彼らは遺伝子の役割を過大評価しすぎている。もちろん、音楽的才能が優れている人の精子や卵子からは、そういう才能を持つ子どもができる確率は高いが、異常なまでの練習をしないかぎり、偉大な音楽家にはならない」
博士はさらに続ける。
「マイケル・ジョーダンのクローン人間を作るのに成功したとしても、その子がNBAに入る保証はない。彼は、成功するために死ぬほど努力をし、さらにその精神力も並大抵のものではないからだ。遺伝子というのは、その枠組みを作り、ポテンシャルを高めることはあるが、異常な努力をしないと実らないことを忘れてはならない」と警鐘を鳴らす。

最近よく話題になっている遺伝子決定論について、京都大学の西川伸一教授は警告を発する。
「黒い髪という一つの特徴が一つの遺伝子と必ず対応したからといって、その遺伝子がその特徴を作っていると考えるのは早計に過ぎます。そんな甘いものでないことは遺伝子学者が一番よく知っています。黒髪を作るというかなり複雑なプロセスの中で、一つの遺伝子がたまたま黒髪に関わっているだけなのです。一つ一つの遺伝子をノックアウトすれば、黒髪に対応する遺伝子を見つけることはできますが、その遺伝子が全体的にどのように関わって黒髪ができるのかという仕組みについてはまったくわかっていません」

西川教授は、デザイナー・ベイビーについてもこう付け加える。
「遺伝子決定論を信じすぎるからデザイナー・ベイビーの発想が出てくるのです。さらに、人間の精神構造は、一つや二つの遺伝子で決定されるものではない。環境の貢献も大きいものです。これに関しては、一卵性双生児を使っての研究が最も興味あるものでしょう。面自いのは、彼らをお互いに離して成長させると似ている場合が多い一方、同じところで成長させると違うようになるということです。近くにいるとお互い違いを主張しながら成長するからかもしれません。また、そこでわかってきたのは、アレルギーはかなりの部分が遺伝しそうに思われますが、一卵性双生児の一致率は高くないことです。精神構造も、双子の研究のように遺伝子が同じという条件で比べるとかなり面白いデータが出てくるのではないでしょうか」


遺伝子診断はここまできている!

現在、妊娠中の希望者に行われている出生前診断法には、羊水検査による染色体異常検査や先天性代謝異常などの単一性遺伝子病検査がある。染色体異常検査では、ダウン症が検知でき、その段階で中絶を選択することが多い。
一方、いわゆる試験管ベイビーと言われる体外受精の場合は、受精卵が8個に分裂した時に、PGD(Preimplantation Genetic Diagnosis:着床前遺伝子診断)という技術が存在する。これは体外受精という必須条件があるが、ここでどうしても子どもに遺伝してほしくない特定の遺伝子形が見つかれば、子宮に戻す必要はない。ただ、PGDにかかる費用は高く、体外受精につきまとう多胎妊娠というリスクもあるが、PGDでは、男女の区別だけでなく、数百という遺伝病も検査できるというメリットがある。遺伝子を改変しないまでも、精子バンクや卵子バンクよりも一歩進んだデザイナー・ベイビーであると言っても過言ではないだろう。

PGDを特殊な目的で使った例でよく知られているのは、次の2例である。一つはこの2月16日、英紙『ガーディアン』が報じたケース。それによれば、白血病の5歳の男児の治療に必要な●帯血を確保するために、両親が体外受精をし、子宮に戻す前にPGDで、息子と白血球の型が一致する受精卵を子宮に戻し、無事女児を出産したという。
もう一つの例は、アメリカ、コロラド州デンバーで起こった。骨髄の生成ができない遺伝病であるファンコー二貧血症を患う女の子を助けるために、その病気を引き起こす遺伝子変異のない胚をPGDで選び、そこから生まれた赤ちゃんのへその緒から健康な幹細胞を採って移植した。このニュースは世界中の耳目を集めたが、兄弟姉妹の命を助けるためにPGDを使ったポジティブな例である。これも、一種のデザイナー・ベイビーと言えるだろう。

シルヴァーは、さらに進んだ例を挙げる。
「PGDでもかなりデザイナー・ベイビーに近づくことができるが、それはあくまでも性別を選択したり、遺伝してほしくない遺伝病を避けるだけだ。最近では、受精卵の前期胚子から一つの細胞を採取して、試験管に移し、致死病であるテイ・サックス病のDNAを分析した。そのうちの欠陥遺伝子に改良を加えてから、前期胚子が子宮に戻された。その結果、健康な女の子が生まれた」
シルヴァーは、PGDは、単に性別の選択など、本未の目的以外ですでに行われていることを認めながら、「これから確実に起きるのは、遺伝子改変である。遺伝子を改変して強化することだ。動物レベルでは完成しているので、ヒトに応用できることは確実である」と確信に満ちた口調で言う。

日本の鹿児島大学医学部でも永田行博教授が筋ジストロフィを避けるために、PGDを使おうとした。その方法で遺伝子を調べるのではなく、男性に出現する疾患なので、単に染色体を調べて、女性を選択することを提案した。しかし、目的が病気を避けることであっても、男女の産み分けだけでPGDを使うことになるので、日本産婦人科学会の承認を得ることはできなかった。
それがアメリカと事情の違うところで、アメリカは、生殖医療さえも市場原理で動く国だから、PGDも男女の産み分けだけで使っているところがある。バージニア州フェァファツクスにあるクリニックでは、“family balancing (男女のバランスを取ること)”という名目で、二人目の子どもからPGDを使って男女の産み分けサービスを提供している。費用は2万ドル(約270万円)と非常に高い。しかし、それは患者の選択によるもので、他人が干渉することではないとクリニック側は啖呵を切る。

ペンシルバニア大学生命倫理学教授のアーサー・キャプランは、高い費用をかけて恩恵が男女の区別だけというのは割に合わないし、受精卵の段階でほしくない性のそれを破棄することは、欲さない性を病気と考えるのと同じことだと批判する。

三菱化学生命科学研究所の特別研究員である松原洋子氏は、デザイナー・ベイビーの考え方について厳しい意見を述べる。
「最近の動向を兄ると、明らかに優生思想が強くなっている。PGDも安くできるとなるとみんなが使うかもしれない。しかし、それで障害児が生まれたら失敗作ということになってしまうのです。昔は不妊治療のためにあった技術が、もはやそうではなく、デザイナー・ベイビーをつくるための手段として使われ始めていることは、非常に危険なことです」

シルヴァーが危倶するのは、行動や性格に影響を与える可能性のある遺伝子だ。
「健康を与える遺伝子をほしがるのはよくわかる。例えば、1%の人は、エイズを引き起こすHIVウイルスに対して生まれつき抗体を持っていて、親は生まれてくる子どもにこの遺伝子を持ってほしいと思うかもしれない。いわゆる遺伝子的ワクチンだが、これを与える技術があるのに、求める親に拒否するのは非常に難しい。しかし、現在、遺伝子についてわかっていることは、想像以上に非決定論的なことだから、性格に影響を与える遺伝子があるとしても、それを与えたからと言って、必ずしもそうなるとは限らない」

賢いマウスを作るのに成功したツィエンも「遺伝子を改変することは、長期的なリスクがないことが証明されていないので、あまりにも危険だ。すべての生命は尊いものだから、人為的に賢くするのは倫理に反する。今我々科学者がやるべきことは、遺伝子技術を使ってわかったことから、いかにして、治療薬の開発をするかである」と、ヒトの遺伝子を直接操作することに抵抗を示す。


新たな人種、ジーンリッチは誕生するのか?

松原氏は、「すでに所得格差で、教育レベルとか体格も違ってきているので、お金で遺伝子も操作してしまうと、もっと差別が出てくるかもしれない」と危倶するが、シルヴァーも同じような懸念を表す。
「遺伝子を改変することで、保証はできなくても、潜在的能力が変わることは確かだ。ここでお金持ちとそうでない人の格差がますます広がる。痴呆やガンに関係する遺伝子を改変すれば、普通よりは長寿になる可能性が高くなり、その子どもは健康上有利になる。もう一つは、能力に関係する遺伝子の改変だ。遺伝子が才能にどのよラに影響しているかもっとわかるようになれば、必ず、持金を使って子どもの遺伝子を改変しようとする親が出てくるだろう。もちろん音楽的才能が強化されたとしても、偉大なピアニストになる保証はまったくない。相当の努力をしなければ、どれほど能力があってもそうならないからだ。こういう場合、親が失望することのほうが多くなるのではないか」

UCLAで、医学・技術・社会プログラムのディレクターを務めるグレゴリー・ストック教授は、「寿命に関しても遺伝子レベルでかなりわかってきているので、必ず改変しようとする人が出てくるだろう。セックスという普通の方法で子どもを作ること自体が、逆に無謀と見られる時代はそう遠くないかもしれない」と予測する。

しかし、どこまで許されるかという問題は常に付きまとう。1990年に世界で初めて遺伝子治療を行ったW・フレンチ・アンダーソンは、こう懸念する。
「あるところまでは許されるという安全装置はない。私の考えとしては、ノーマル以下の機能をノーマルのレベルにまで上げる改変は許されると思う」
これに対して、盲目であるウェズレー大学の生命倫理学者アドリアン・アッシュ博士は、「はたしてノーマルを定義することができるのか。私は盲目でもノーマルな生活ができるので、その定義は非常に問題が多いと思う。いくつかの精神病にも遺伝子が関係していることがわかってきているけれど、それを改変してもいいかというとかなり疑問だ。小人症もそうだ。身長が低いことが社会問題だと言うのか」と反論する。

遺伝子学者でもあり、遺伝学諮問委員会のメンバーでもあるポール・ビリングズ博士も「遺伝子改変は、学者の傲慢さの表れです」と警告を発する。

アメリカは、市場があれば社会が動く国なので、裕福な人がそういう技術にアクセスできることは間違いない。シルヴァーは、遺伝子改変に、お金に糸目をつけない“Gen-rich(ジーンリッチ)階級”の出現についてこう言う。
「この調子で、代々遺伝子を強化していけば、遺伝子的にナチュラル派と異なるジーンリッチ階級ができるだろう」
そうなれば、両者の間で争いが起きることは間違いない。

アメリカでは、精子銀行から買った精子から期待通りの子供ができなかったとして、訴訟を起こすケースがすでに出てきている。
遺伝子決定論に過剰な信頼を置くと、とんでもない訴訟が起きるだろう、と生殖に関する弁護士として全米第一人者であるロリー・アンドリュースは警告する。
「遺伝子診断による雇用差別訴訟はすでに起ぎています。もし、被告に暴力性に関係する遺伝子が見つかれば、リハビリをしても意味がないとして、判事が無期懲役を宣告する可能性さえあります。

映画『ガタカ』のように、事故死でない限り寿命がわかるとすれば、交通事故の訴訟内容もかなり変わってきます。遺伝子診断を命じられ、寿命がそれほど長くないことがわかれば、損害賠償の額も減らされる可能性があります。ハンチントン病の遺伝子はすでにわかっているので、遺伝子検査でその遺伝子を持っていることがわかれば、死刑宣告と同じです。治療方法がありませんから」


生命のデザインとES細胞

西川教授は、「生物学で最も研究が進んでいない分野が生命のデザインだ」と言う。
「まず、現時点では、無生物から生物を作り出すことはできない。受精卵を凍結して後から使ったり、そこからES細胞を取り出して、増殖したりすることはできても、人間が生命そのものを作り出すことはまだできません。すでにあるデザインを維持したり、マトリックスを作ってそこに細胞を入れることはできますが、それはデザインを理解したことにならないのです」
こう考えると、生命に対する考え方にも影響するだろう。
「カール・ポッパーという哲学者が『人間は死なない』という逆説的命題を提出し考えさせる事で、我々自身の生命の多層性を指摘した。我々は細胞を取り出して、増殖し、生かすことができるわけだから、そういう意味では死ぬことはない。つまり、生命に対する見方もいろいろあるということを認識しなくてはならない」

ここで、クローン技術以上に生命科学の未来を変えたと言われるES細胞(Embryonic Stem Cell:胚性幹細胞)について説明しておこう。これは身体をつくるおおもとの細胞で、条件をうまく見つければ、神経や筋肉、肝臓、血液細胞などさまざまな細胞になる。いわば「万能細胞」なのだ。
まず、精子と卵子は、受精卵を作ると胚の発生を始める。受精したときを0日目にすると、5日から1週間目には、胚盤胞になり、それ以上進むと子宮に着床してしまう。ES細胞はこの胚盤胞から作られるが、1981年にマウスから採ったES細胞の無限増殖に成功する。ヒトES細胞の作製は、1998年ウィスコンシン大学で成功するが、日本ではまだ作製されていない。だから、アメリカ、スウェーデン、イスラエル、インドなどから輸入するしかない。

前述したように、人間は無生物から生物を作り出すことはまだできない。生命のデザインについてもまったくと言っていいほど研究が進んでいない。だからこそ、自らの力でデザインできるES細胞の可能性は無限なのだ。生きた細胞を作ることはできなくても、試験管内で増やす方法はすでに確立している。これはとても重要な面である。
例えば、パーキンソン病の場合、ドーパミンという化学物質を作る細胞が死ぬわけだが、どの細胞が死ぬかわかれば、その細胞を置き換えて治療に使うこともできる。
「神経幹細胞の場合、どこから取ってきたかによって、癖が出てしまう。ひょっとするとパーキンソンにはだめだが、ハンチントンにはいいかもしれない。ともかく、どれかに固定しないで、患者が悩んでいるもの、特に精神の荒廃に至る病気については、その悲惨さを考えると、積極的にやっていくしかないと思う」(西川教授)

遺伝的な病気の場合は、自分の幹細胞は使えない。そうでないものを使う仕組みが必要で、他人の細胞をどのように使うか。骨髄バンクがかなり整備されてきているので、それを使うとか、工夫が必要である。最近では、骨髄の細胞が肝臓になるという方法があることもわかっている。

また、ES細胞の中で遺伝子操作をして、遺伝子を欠損させたマウスを作ることは当たり前の技術になっている。ただ、どういう条件で何をすれば、ES細胞がある細胞になるかというのは、完全にはわかっていない。しかし、これは生命科学の中で無限の可能性がある研究分野と言ってもいいだろう。

以前、利根川博士が作ったマウスで、移植をすべて受け入れるマウスがある。つまり、拒絶反応を回避するためにどの遺伝子をノックアウトすればいいかということもわかっている。ところが、今度は拒絶されない細胞を入れたときに、癌になるかどうかは、まだ解明されていない。
「だから、多様な側面からものを見るということが大事なのです。それでも患者は、今死ぬよりはましだ、と言うかもしれない。さらに精神の荒廃に至る病気の場合は、もっと複雑になるが、患者からみれば、選択範囲が大きいというところが大切である」(西川教授)。

ここにも、シルヴアーの言うジーンリッチと同じような階層ができる可能性がある。
「例えば、10年は持つとして、200万円で細胞レベルの治療をしてくれとなると、お金を出す人はいるでしょう。実際、軟骨をアメリカに送って戻すまでは160万円かかる。それに手術代を入れると300万円。もちろん保険はきかないが、細胞レベルの治療で、200万円くらいなら、やろうとする人は出てくるでしょう」

さらに西川教授は、「ES細胞で、現時点での最大の間題は、拒絶反応です。そこでクローン技術というのが必要になりますが、これはまだ認められていないのです」と説明する。
人間のような複雑なものでも、遺伝子の数は3万;4万しかないことがわかってきた。遺伝子から突然変異を順に入れていく実験も人間以外のいろいろな生物、例えば、ショウジョウバエとかセンチュウとかネズミでできている。しかし、高次元での研究をするには、人間を使うしかない、と西川教授は言う。
「今始めるべきことはコホート(統計上の集団、特に同年集団)の研究だ」
つまり、小さい頃から20歳くらいまで、双子の研究と同じように、行動のフォロー・アップを詳しく行うが、それにはその人のゲノム(遺伝情報の全体)も同意のもとに入手する。子どもの行動を撮影したビデオもすべて記録として残していく。最終的には、人間の精神活動を研究するためのデータベースを作る。

「たとえば、10歳のときに問題児になったが、更生して今は立派に生きているとか、そういう細かいデータも必要である。そういうプロセスを結び付けるには、今始めるしかない。20年はかかりますから。ただ、プライバシーの問題があるので、国には任せられません。よく問題児という事が語られますが、何のデータも根拠もないのに、議論することはおかしいのです。今、ヒトの遺伝情報が入手できるわけですから、それと合体した研究をしないとわかるはずがありません。たとえば、必ず発症するといわれるハンチントン病の遺伝子変異も発見されていますが、その変異は遺伝子レベルでは、日本人もアメリカ人も同じです。しかし、平均すると、日本人のほうが発症が遅いと聞いた事があります。関係する神経細胞を使うプロセスが文化として日本人は少ないということかもしれません。遺伝子レベルでの差がなくても、思考回路が異なるから、発症時期にも影響するかもしれない。遺伝子レベルでの研究と同時に認知科学とも合体させないといけないのです。こういう高次元の研究をもっと積極的にしなければならないと思います」(西川教授)


ヒトはどこからヒトなのだろうか?

さらに根本的な問題として「ヒトの生命はどこから生命なのか」という難問がある。
西川教授が強調するように、今の時点で人間は、無生物から生物を作ることはできない。だから、受精卵を使うしかない。ところが、ヒトの受精卵は、「ヒトの生命の萌芽」つまり、子宮に戻してうまく着床すれば、人間になる可能性がある。

現状は、研究目的のために、体外受精をさせて受精卵を作るわけにはいかないので、いわゆる試験管ベイビーのために体外受精をしたときにできる余剰胚を使っている。
着床率を高めるために、排卵剤でできるだけたくさんの卵を作り、5個くらいの受精卵を子宮に戻す。そのままでいくと3つ子とか多胎児が生まれてくるので、今は3つくらいの受精卵を戻す。そうするとどうしても破棄する受精卵が出てくる。それを研究に使おうということだ。
しかし、これは国によって考え方が異なる。イギリスでは、余剰胚を使った研究は許されているが、ドイツをはじめ、ほとんどのヨーロッパの国では禁止されている。ここに宗教とか思想が入ってくると問題はそう単純ではない。

次にデザイナー・ベイビーを作るために、体外受精を行い、子宮に戻すために、遺伝子診断(着床前診断)をして問題のない受精卵だけを戻す行為だが、これも生まれてきてはいけない受精卵を人間が勝手に選ぶことになる。いわば、優生学の再来ともいうべき時代に突入することになってしまう。障害者や弱者の存在が否定されるような、非寛容な社会になっていく可能性はないのだろうか。
「今、遺伝的な違いがかなりわかるようになって、突然変異があると指が6本になる一つの遺伝子が知られている。昔であれば、かなりおかしいことが起こったように見えたのに、たかが一つの遺伝子が突然変異したと思えば、大騒ぎすることではない。鼻が高いとか低いとかも同じように考えれば、大したことはない」(西川教授)

一方では、優生思想を奨励するような技術が生まれ、一方では、より寛容な社会が望まれるという矛盾した事態に私たちはどう対応していったらいいのだろうか。
「社会には、弱者がいないと、弱者を守るという考えは出てきません。ただ、誰もが認識しないといけないことは、人間誰しも年をとれば弱者になるということです。その年寄りを見て、自分たちも年をとり、弱者になるから、弱者を守る寛容な社会を作っていかねばならないと思うのか。また、すべての人間は遺伝的に異なっていても、平等であるということをきちんと教育すべきなのです。アメリカで一時よく語られた犯罪遺伝子の発想は極めて危険です。特に科学者はそういう発想を絶対に持ってはいけないのです」

誰もが欲する最優先のものは、健康であろう。健康の定義も難しいが、遺伝子改変も安全面が保証されれば、裕福な人はするだろう。
とすると、科学者の社会での役割は何か。西川教授は言う。
「科学者は、科学の発展と社会の寛容性のバランスを常に、考えなければならない。それぞれの人間が遺伝的に異なっていることを認めた上で、差別を拒否する思想を持つべきである」

ガタカ GATTACA
遺伝子工学の発達によって優秀な遺伝子を組み合わせて生まれた「適性者」が支配し、人間の生活も固定化されてしまった未来世界。そんな折り、自然出産で生まれた「不適性者」のヴィンセント(イーサン・ホーク)は、宇宙飛行士になる夢をかなえるため、遺伝子適性をごまかして宇宙局「ガタカ」へ入社。しかし、ある日社内で殺人事件が起きて、ヴィンセントが犯人と疑われてしまい…。
   DNA優先の管理未来社会の中で、夢を追い求める青年の苦悩と希望を描いたSF青春映画。ヒロインにユマ・サーマン、ほかジュード・ロウ、アラン・アーキン、アーネスト・ボーグナインなどキャストも豪華。監督はニュージーランド出身の新鋭で『トゥルーマン・ショー』の脚本で注目されたアンドリュー・ニコル。

 
 
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