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週刊文春 2005年3月24日号
<書評>
取材する側とされる側が率直に意見を交す
犯罪被害者が報道を変える
私自身は、事件記者ではないが、たまに被害者を被害者を取材しなければならなくなるときがある。幸い新聞取材としてではなく、週刊誌の取材で行くので、今日中に話を聞かないと間に合わないということはあまりないが、被害者の取材となるといつも気が重くなるの確かである。どのケースでも通用するような被害者と取材者のルールがあれば、お互いにどれほど楽になるかと、怠慢な発想が出てくる時もあるくらいだ。
この本は、実際に報道被害にあった人たちと取材者が参加した勉強会から生まれたものであるが、取材者側にとっても被害者側にとってもこれほど深い洞察を与えてくれる本に今まで出くわしたことがない。
2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小学校事件で長女を亡くされた酒井肇さんは本の中でこう言う。
「一分一秒でも早く搬送してほしかった。(中略)ヘリが運んでくれたら助かったかもしれない、と思うのです。娘は失血死でしたから」
事件直後に上空を旋回する数社のヘリの騒音で、地上で自分の娘が運ばれた病院名が聞き取れなかったという。
さらに取材申し込みで昼夜を問わず、インターホンを鳴らされる話。「報道の自由」「社会的使命」「知る権利」という言葉が一人歩きしている話。
身につまされる話ばかりであるが、どういう取材がよかったのか、逆に嫌だったのか、普段取材をしているとそれについては想像でしかないことを、この本は教えてくれる。嫌だった取材として「記者が考えたストーリーに組み入れる言葉だけ抜き取られた」「報道されずに傷つく場合もある」など。よかった取材として「事実解明の力になった」「報道で裁判への関心が高まった」などがある。
物事には必ず両面がある。報道することで法の不備が浮き彫りになり、改正につながる場合もある。
重要なことは、取材者と被害者の信頼関係ができているかどうかである。不運は不意に訪れるものだ。そういう意味で記者でない人にとってもこの本は対岸の話ではないのである。
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