|
正論 2006年6月号
“金王朝プリンス”金正哲がスイス留学で描いた夢(上)
「北後継者の最有カ候補ジョンチョルの留学先が分かった。
現地へ飛んで旧友や元教師にインタビューする道筋をつけてほしい」
テレビジャーナリスト集団「ジン・ネット」(東京都港区、高世仁代表)から私の携帯電話が鳴り、北朝鮮の最高指導者・金正日総書記(64歳)の二男で、後継候補ナンバーワンの金正哲氏(キム・ジョンチョル・26歳)取材を依頼されたのは昨秋のことだ。留学時代の番組を制作し、べールに包まれた彼の来歴を明らかにしたいということだった。
正哲氏の留学先とはスイスの首都、ベルンにあるベルン・インターナショナル・スクール(ベルン国際学校、英名International school
of Berne)だ。一九九三年から九八年(平成五年から十年)までの五年間「大使館付き運転手の息子」として、護衛係とされる少年と二人で通学していたという。
学費は年間約三百万円、欧州の王族や各国大使の子弟が通う学校として知られる。同校公式サイトによると、四月現在三十八ヵ国から二百五十人の生徒が在籍し、教師の国籍も十ニカ国に及ぶ。
私はすぐ単身スイスヘ飛んだ。
ベルンは首都だが、人口十二万七千人の小さな街だ。チューリッヒ、バーゼル、ジュネープに次ぐ四番目の街で、独フランクフルトから一日数便しかなかった。そこでスイスの玄関口、チューリッヒ国際空港へ飛び、さらに南西へ三時間鉄道でベルン入りすることにした。
九月九日、車窓にはのどかな田園風景が広がり風光明媚だった。観光なら実に良い旅だが、私は頭を抱えていた。ツテは全くない。情報を取るために何やってもいいとは言われなかったが、米中央情報局(CIA)が情報源を落とす手法−例えぱ本当の身分(私の場合ジャーナリスト)を明かさなくていいから、とにかくクルーが動く取材先リストを作成してほしいと言う。初動で失敗すると全てダメになる。久々に緊張する取材のスタートだ。
何しろべールに包まれた人物である。正哲氏について西側マスコミが所有する資料は皆無に近い。
金総書記には三人のプリンス(王子)がいる。長男の正男氏(36歳)は女優・成恵琳(ソン・ヘリム、二〇〇二年五月65歳で死亡)との子である。久しく後継候補ととりざたされたが、〇一年五月、成田空港で密入国に失敗し国外退去処分となってから長期間、北朝鮮帰国も許されず、後継候補から脱落したと聞いた。
知人の話だと「正男氏は理論、教養はしっかりしていて後継者としても適齢であったが、成田での惨めな一件が致命的だった。発覚しなけれぱあの行為は革命的・英雄的行為だ。しかし明るみに出た上、獄中闘争が展開できない拘束のされ方で経歴に消せない傷がついた。経歴に傷があっては後継者とはなり得ない」という。
こうした中で、正哲氏と弟で三男の正雲氏(23歳)が急浮上した。二人の母は在日朝鮮人の舞踏家、高英姫(コ・ヨンヒ、〇四年六月57歳で死亡)。韓国ではこの腹違いの弟たち、特に正哲を後継者とする報道が圧倒的に多い。
高が存命だった二〇〇二年には「尊敬するオモニム(母親の敬称)」として偶像化する作業も始まった。これは正哲氏を後継者とする事前準備と言われ、韓国の有力月刊誌『月刊朝鮮』同年三月号が北朝鮮の内部資料を分析し「金正哲が三代目世襲」と報じた。また朝鮮人民軍が同年八月に発刊した朝鮮労働党幹部の思想学習用資料にも正哲氏の後継内定が確認されたりしている。
確かに二人は在学していた
ベルン駅へ着くと夕方だった。アインシュタインが特殊相対性理論他の論文を執筆した街。
旧市街は八三年にユネスコ世界遺産として登録された。市名の由来であるヒグマを飼育する公園もある。正哲少年も遠く故郷を離れてこの駅に降り立ち何を思っただろう。
スイスヘは正男氏も一九八○年、九歳から数年間、ジュネーブ国際学校(Ecole de Internationale de Geneve)へ通った。滞在中身元が割れたことから今回ベルンが選ぱれたのだろうか。
翌朝、目指す学校は閑静な住宅街にすぐ見つかった。私は駅近くから二時間ほど学校の様子を観察した。平日午後三時すぎ。生徒たちが車で迎えられ次々下校した。情報提供してくれる学内の人物を一人落とせばよい。うまくいくか。
ええい、ままよ。学校事務室のドアを叩くと女性が顔をのぞかせた。意外にフレンドリーで「いける」と直感した。
「調査を依頼されてきた者ですが…(I am an investigator …)」と切り出した。私の職業はジャーナリストだが、「依頼された者」はウソではない。「北朝鮮の生徒がいたと思う。連絡を取りたいので当時の校長先生の名を教えてもらえませんか」
「金正哲」の本名は出さなかった。彼の父親が現在の最高指導者「金正日」であることも言わなかった。余計な警戒感を与えたくなかったからだ。
ずっとこの場面を考え、胃が痛んだ。
女性はその様子がみてとれたのか「困っているのでしたら」と、元校長の現職は隣国ドイツの国際学校長だと教えてくれた。三日後、再び連絡をとると即座に断られた。私の訪問をだれかに話し、「ある日突然姿を消した」北朝鮮指導者の息子だと知ったのではないか。
王子は大使館付き「運転手の息子」
十月一日ドイツ入りした。今度はディレクター、カメラマンが一緒だ。
元校長のデービッド氏は取材の趣旨を説明すると「より理解が深まるでしょう。極東の平和と安定に寄与するなら」と快く応じてくれた。在任中の八年間(九三−二〇〇一年)に朝鮮系の生徒は六人いたという。四人が韓国大使館関係、残る二人が北朝鮮大使館関係−金正哲氏と護衛の少年−だった。チョル・パクとクァンチョル・ムン。偽名だった。卒業アルバム(Year
Book)の二人は素朴で賢そうな少年だ。チョル・パクが正哲氏であることは、後に正哲氏と面識がある在米韓国人に確認してもらった。
元校長は、十人前後の少人数学級だったためか二人のことをよく覚えていた。
−二人の関係は?
「良い友人でよく二人で話していました。韓国や他国の子供たちとも仲良しでした。パクはスポーツが好きでユーモアのセンスが非常にありました。学校の勉強もときには真面目に、ときには手を抜くごく普通の生徒でした」
−両親はどういう人たちでしたか。
「クァンチョルの両親は学校に来ませんでした。パクの父親と母親は何度か一緒に学校に来ました。会話が大変でした。子供たちが通訳しながらハングル、ドイツ語、英語を混ぜて話しました」
−パク・チョルの印象は。
「ユーモアのある非常に繊細な良い子でした。クリスマスの演芸会も参加して楽しんでいました。大人の目が行き届き、こぢんまりしたハッビーな学校でした」
−英語能力は?
「学校を去るころにはかなり上手になりました。外国語で学科を勉強するのは難しいことですが彼はやり遂げました」
−英語以外の成績は?
「平均以上です。在学中の全期間成績は良かったです。よく勉強し数学に熱中したりしなかったり。数学は得意でした」
−韓国人とは。
「韓国人の親たちは彼らと交流できないのではと心配したのですが、同じ言葉を話す者同士、すぐ馴染みました。興味深いことは、親が心配するほど子供は仲良くなるのに苦労しないということです」
−間題を起こしたことは?
「全くなく、礼儀正しい少年たちですよ。いつも非常に礼儀正しかったです」
−彼らについて情報は。
「全くありません。三十五ヵ国の生徒の多くは大使館の子供たちです。両親に書類に記入してもらい、以前いた学校の記録を提出すれば入学できます」
−正哲氏の父は、北朝鮮大使館の運転手だと書類にあったのですね。
「そうです。ベルンとジュネーブ間を運転していました」
−お父さんが息子に対して、礼儀正しすぎるという印象は。
「父親はコリアンやドイツ語など外国語で話し、われわれは生徒を英語で教育していたので分かりません」
−両親の地位が非常に高いという印象を受けませんでしたか。
「受けませんでした」
−なぜ?
「なぜなら彼の父親は北朝鮮大使館の運転手だったからです。小さな大使館では何でもしなくてはなりません。父親は大使ではありませんでした。この学校には大使の子供がたくさん通学しています」
−事実確認は。
「私の仕事は生徒を助けることで、家庭環境は詮索しません。欧州各国の王族のプリンセス(王女)や外交官の子弟がいるのは当然のことでしたから」
ある日こつ然と姿を消した
その二人が突然、姿を消したのは九八年度の初めだったという。十年生(高校一年生)が始まったぱかりだった。
−何と言って?
「いえ、突然来なくなったのです。尋常なことではありません。大使館からも連絡はありませんでした。しかしその後電話があり、無事を知りました」
−北朝鮮に帰ったのか、第三国へ向かったのかも分からなかったのですね。
「でも先ほど申し上げたように、夜中にチョルから電話がありました、北朝鮮で元気にしているそうです」
−電話は北朝鮮から?
「午前三時ごろです。彼はバスケットポールチームはどうしているのか、みんなは元気かとかきいてきました」
−学校を去った理由は?
「いいえ、彼はみんなが元気か知りたかったようです」
−理由は聞かなかったのですか。
「OK?(元気か)とききました。彼は北朝鮮で元気にしている(0K)と言いました。学校に戻ったのか聞いたのですが『いいえ』と答えました」
−電話は一回だけですか。
「三回ありました」
−最後はどんな感じでしたか。
「彼はバスケチームにとても興味があっていつも聞いてきました。『またかけます』と言っていましたけれど、もうかけてこないと思います」
「理想の世界は核も麻薬もない」
デービッド元校長は卒業アルバムを五年分も見せてくれた。どの写真も、あどけない正哲氏が護衡の少年、クァンチョル・ムンとともに明るく笑っている。
中でも親しかったのが、米国人のガイ、ジェイソン両氏、そして南アフリカ共和国出身のラウル氏だったという。この五人はともに遊び、笑い転げ、毎週金曜日はスキー場へ出かけた。
十一月二日、米国に大学生のジェイソン氏(23歳)を尋ねた。父親が技術者でベルン西部に転勤になり、九六年から一年間、妹と通学したという。
−パク・チョルを覚えていますか。
「とても親切でした。現地で出会った人の仲で一番良くしてくれました」
−一緒に遊んでいたのですか。
「(チョルとは)性格も私とよく似ていたので波長があったのです。穏やかで礼儀正しいし。冗談を言ってふざけ合いましたが、真剣な話もできました」
−具体的には?
「説明しづらいのですが…。にぎやかな子が多い中、口数が少なぐ物静かでした。礼儀正しく騒ぐことはなかったです」
−英語はどうでしたか。
「よくできましたよ。クラスで提出する作文を手直ししてあげたことはありました。なまりもありましたが、彼の英語は非常に上手で問題なく理解できました」
−ずいぶん手伝ったのですか。
「私は母国語が英語ですから自然に級友を助ける役回りでした。提出前につづりや文法を確認するくらいで書くのを手伝ったわけではありません」
鍛えて筋肉隆々だった
−どんな話をしましたか。
「映画やスホーツの話をよくしました。特にアクション映画が大好きでした。チョルはジャン=クロード・ヴァン・ダムが大好きで武道を好みました」ヴァン・ダムはハリウッドスターで、欧州チャンピオンにもなった空手を生かしたアクションで人気を得ていた。「彼は『ユニバーサル・ソルジャー』が好きでした。格闘シーンがあって激しいアクションや空手を披露します」
−パク・チョルは空手を見せたことがありますか。
「本当の空手をしているのは見たことはありません。単に映画のまねごとをしているのを見ただけです」
−彼は女の子のようにおとなしいとの噂がありますが実際はどうでしたか。
「女の子のようではありませんが静かです。知らない人の前ではシャイ(恥ずかしがりや)ですが、友人になると打ち解けてオープン(率直)になります」
−男らしいのですね。
「そうです」
−ヴァン・ダムのような強い男になりたいと思っていたと思いますか。
「ええ、年齢の割には筋肉があり、かなり強かったです」
−彼の父親(金総書記)が彼は女みたいに弱々しいと言っていますが。
「精神的にですか、肉体的にですか」
−精神的に、です。
「彼は弱くはなかったです。シャイでしたが、彼は状況に応じてたくましくなれる人だと思います。彼は必要がなけれぱみんなに近づいて意地悪してたくましさを見せつけたりしません。彼は自分を守らなけれぱならない状況になれば立ち上がり強く振る舞うと思います」
−彼が「僕の理想の世界」という題名の詩を書いたのを覚えていますか。
「題はうろ覚えですが、読みました」
−どう思いましたか。
「内容は理想についてで、共産主義政府の理想とは犯罪や貧困がないことだというようなことが書かれていました。共産主義者の理想はユートピア(理想郷)で、その言葉があちこちに出てきました。これは政府の方針で、そうあるべきだと思っているのでしょう」
文集に綴られた詩は次の通りである。
僕の理想の世界(15歳 九五年)
理想の世界があったら
僕は武器や核兵器なんか許さない
テロリストたちを
ハリウッドスターのジャン=クロード・ヴァン・ダムと一緒にやっつけてやる
人々がドラッグをやるのをやめさせよう
「ドラッグ」という言葉も破壊して誰も思い出せないようにしよう
すべての人が良い仕事につけるようにする
みんなが幸せになるだろう
戦争もなくなリ
死ぬこともなくなリ そして泣く人もいなくなる
ルールを作ろう(神を信じてはいけない)神は助けてくれないし
そもそも神なんていない
人々が自分自身を信じるようにしたい
そうすれば、人々は未来に向かって自分のカで幸せと成功をつかむようになるだろう
私は世界の人々がひとつの言葉を使うように変革したい
それは朝鮮語がいいだろう
そして
世界の人々が皆
同じだけの財産を持つようにしたい
金持ちも貧乏人もいない
僕が考える理想の世界でのみ
人々は自由でとても幸せに暮らせるのだ
料理は口にしなかったジョンチョル
ジェイソン氏はじめ級友はだれもが、パク・チョルが北朝鮮最高指導者の息子だと知らなかった。だが放課後の外出を許されず、包まれた食べ物以外は決して口にしない行動を級友たちはみていた。
−放課後に彼の家へ行ったことはありますか。
「他の友達の家には遊びに行ったり泊まったりしましたが、北朝鮮の人の家には行ったことはありません。両親が外出許可しなかったのではないでしょうか。あるとき級友の誕生会がありました。彼は『行かない』と言っていたのですが、ぎりぎりになって参加できました」
−誰の誕生会ですか。
「双子の友人です。その家のプールで泳いだり食べたりしました。クァンチョルと一緒に来たはずです。どこへ行くにも彼らは一緒です。一人が行ったのにもう一人が行かないということは記憶にありません。一人が行けぱもう一人は必ずその横にいます」
−両親はついてきましたか。
「誰の両親も来ませんでした。みんな電車で行きました。僕や彼ら(双子)はフランス語圏に住んでいて、みんなはドイツ語圏から電車に乗って集合し、そこから一緒に行きました」
−チョルは料理を食べましたか。
「少し食べていました。彼はふだん包装していない食べ物は口にしません。だから誰かが持って来た料理や注文したピザを食べたのは珍しいことでした」
−直接理由をきいたことは。
「ありません。みんな弁当持参でしたから話題にならなかったのです」
−家族についての噂は。
「当時、彼が北朝鮮の将軍の息子で、クァンチョルが護衛だという噂を耳にしました。単なる噂です。でも包装した食ぺ物しか口にしないことで本当かもしれないと思ったこともあります」
−噂を聞いてどう思いましたか。
「それによって友人としての彼に対する気持ちが変わることはありませんでした。父親がだれであっても、彼は彼であって関係ありませんから。噂に関係なく彼はずっと僕の友人だと思っています。でもそのことで彼の食べ物のことなど納得しました。特有の行為はなぜなのか溝が埋まり、疑問が解けました」
リーダーの資質
ジェイソン氏は、取材に良く協カしてくれた。パソコンで同校サイトの同窓生専用コーナー「アラムナイ」にアクセスし、卒業生の現住所や肩書きを調べてくれた。北朝鮮の生徒に関する情報は在校期間以外まったくなかった。
−チョルは、自国に誇りを持っていましたか。
「はい。誰もが自国に誇りを持っていました。あちらでは、誰もが自国を代表していましたから。自分の行動が自分の国全体を投影するのです。誰もが自国を悪く見せるような行動はとりません」
−北朝鮮については。
「『良いところなので帰国後いつか会いに来てくれ』と言っていました」
−行ってみたいですか。
「気軽に行く場所ではありませんから難しいですね。でも彼とは会って音信不通になっている空白の時間を取り戻したいです。今どうしているのでしょう。良い友情を築きましたので昔と同じように友達付き合いができると思います」
−彼は北朝鮮の次期指導者になるのではないかと言われています。
「良いことだと思います。一緒に授業を受けたころとは彼も僕も多少変わっていると思いますが、彼はスイスで多くのことを学び世界中の人々に会っています。そのことは彼に蓄積しているでしょう。これは北朝鮮の人々や世界にとって良いことだと思います。彼は北朝鮮を良い方向へ導くでしょう」
米国バスケ選手が好きだった
仲良し五人組のもう一人、公務員のガイ氏(23歳)も穏やかに語ってくれた。父親は米国情報庁勤務で、九四年から三年間通学した。母親は新聞記者で「取材拒否はいけない」と息子に告げてくれた。多くの写真提供を受けた。
−一番親しかったのはだれですか。
「チョルですね」
−どんな思い出がありますか。
「一緒にバスケやサッカーをしたことです。バスケは学校でチームを作っていました。ベルン・ベアーズ(ベルンのクマ、Bern Bears)です」
−バスケは上手でしたか。
「上手でした。彼ほチームワークを大切にする方です。体は立派だったけれど攻撃的なタイプではありませんでした」
−彼のポジションは?
「パワーフォワードです。」
ジェイソン氏も正哲氏はバスケが大好きだったと指摘する。
「デニス・ロッドマン(米NBA選手)が大好きでした。91は彼の背番号です。シカゴ・プルズのジャージをいつも着ていました」
このころ、北朝鮮国内で「背伸び運動」としてバスケットボールブームが巻き起こっていたことは興味深い。特に帰国を前後して「柳京(ユギョン)バスケットボール競技場」が北朝鮮国内に新たに建設された。NBAと同じ、制限区域が台形ではなく四角いレイアウトで、建設には韓国資本が投下されたことが確認されている。北朝鮮系のある貿易関係者の話だと、日本国内でも指示があり、東急ハンズなどでNBA選手の写真やナイキの運動靴、スポーツ飲料を買い込み送ったという。すべては「将軍様のため」のもの。息子たちに贈られたのだろうか。
正哲氏と親しかったガイ氏は彼の家に招かれたことがあったという。
−どちらが誘ったんですか。
「チョルです。このビルの二階です。映画『ストリートファイター』を観ました。ジャン=クロード・ヴァン・ダムのピデオが十本くらいありました。彼の大ファンでしたから」
−級友とけんかしませんでしたか。
「まずしません」
−友人がけんかしているとき、彼はどんな態度をとりますか。
「止めに入ると思います。一度、僕自身がとめられたんです」
−彼は自分の我を通す人でしたか。
「いいえ」
−最高指導者の息子は自己中心的でわがままになりがちだと思うのですが。
「まるで違います。わがままなところは全くありませんでした」
−他人から攻撃されたときどうしていましたか。
「彼は強かったから、だれも手を出そうなんて思わなかったでしょう」
−やせて貧弱に見えますが。
「見た目よりずっとガッチリしていました。腕の筋肉とかすごかったし」
−鍛えたのでしょうか。
「恐らくそうでしょう」
−クァンチョルは護衛でした。
「当時は全く思いませんでしたが、今にして思えばチョルよりはるかに強そうではありましたね」
−パク・チョルが誰かに攻撃されたら、クァンチョルは助けたでしょうか。
「そうした状況なら助けに入るでしょう。腕っぷしは強そうでしたから」
−印象に残った遊びは。
「サッカー、スキー、いろいろしたけど、バスケットポールかな」
−女の子たちとは。
「あまり遊びませんでした」
−どうして?
「彼はシャイだから」
−かなりシャイでした?
「とんでもなくってほどでもないけれど、シャイはシャイでしたね」
−ガールフレンドの話とかは?
「ええ、しましたよ」
−特定の女の子の話とか?
「覚えてないですね。いい加滅なことを言ってもまずいので」
−彼は好きな人はいましたか
「パスです。覚えていません」
−「僕の理想の世界」で「世界で一言語だけ使うとしたらコリアン(朝鮮語)だ」と書きました。彼は自分が権力を持ったらどんな世界を作ると話していましたか。
「ここではそう書いているけれど、僕にはそんな風には言っていませんでした」
−自国に誇りを持っていましたか。
「それはもう間違いありません」
−どのように誇りを持っていると説明していましたか。
「国粋主義(nationalistic)ではなく愛国心の強い(patriotic)男でした」
−例えぱどんなふうに。
「ほめていた記憶しかありません」
−彼が北朝鮮最高指導者の息子と知ったとき、どう思いましたか。
「驚きました。信じられなかった」
−次の指導者になったらいい時代が来ると思いますか。
「彼なら平和な世界を築いてくれるでしょう。彼が指導者になってくれるといいと願っています」
−なぜそう思うのですか。
「彼の人柄を知っているからです。悪い世界にはなりっこありません。彼は悪魔にはなり得ない、ナイスガイ(いい奴)ですからね」
|
関連書籍
|