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正論 2006年7月号
“金王朝プリンス”金正哲がスイス留学で描いた夢(下)
「核・麻薬」父親の国策を息子はベルンで知った
北朝鮮の最高指導者・金正日総書記(64歳)の二男で、後継候補ナンバーワンの金正哲氏(26歳)は、一九九三年から九八年(平成五年から十年)までの五年間、スイスに留学していた。
留学先は首都、ベルンにあるベルン・インターナショナル・スクール(ペルン国際学校、International school of Berne)。チョル・パクという偽名で、欧州各国の王族のプリンセス(王女)や外交官の子弟が通う学校に、「大使館付運転手の息子」として、護衛係とされる少年と二人で通学していたという。
テレビジャーナリスト集団「ジン・ネット」(東京都港区、高世仁代表)の依頼で、世界中に散らぱる同窓生や元教師に話をきいてきたが、その中で浮かび上がってきた生の「正哲」像は、巷間言われているような「弱々しい」イメージとはかけ離れたものだった。取材で得た証言によると、だれもがそうした側面を即座に否定したのである。
正哲氏が筋肉隆々だっただけでなく、精神面の強さも強調され、前号でも紹介したように、かつての友だったことを割り引いても同級生が述べる言葉からは良い少年像以外は浮かぱなかった。
そして皆が一様になつかしがっていた。
「平和な世界をよろしく」(ガイ氏)
帰国の前年、正哲氏は「友達」(17歳 一九九七年)という詩を書いている。
友達って何だ?
信じられる人
悲しみを話せる人
一緒に笑える人
一緒に泣ける人
友情はお金や権力より価値がある
君は決してひとリぼっちじゃない
そしてよく言われることだが、
友情は死なない
でも、そのために友情を守らなくてはいけない
生かし続けなくてはいけない
仲良し五人組の一人、米国在住の公務員、ガイ氏(23歳)は「正哲氏が指導者になってくれるといい。
彼なら平和な世界を築いてくれるでしょう」と微笑んだ。
理由を尋ねると、こう言い切った。
「彼の人柄を知っているからです。悪い世界にはなりっこありません。彼はナイスガイですからね」
そのとき見せてくれた写真の一枚がスキー場での一コマである。
−これは何をしに行ったときですか。
「スキーです。ベルン南部、スワイツアマン(Zweizerman)で撮りました」
−よく行ったんですか。
「ええ、冬は毎週金曜日に」
−髪にウェープがかかっているけど、これは生まれつきですか。
「違うでしょうね」
−人工的にパーマを?
「そうじゃないかと思います。スキーウェアも格好よかったですよ。とてもお酒落ですよね」
−スキーは上手ですか?
「ええ、上手でした」
−学校を離れたあとも彼とは連絡をとっていますか?
「残念ながら音信不通なんです」
−もしまた連絡がとれるとしたら、どんなことを言いたいですか。
「元気でやってるかい?ぼくは元気だよ。しばらく会っていないけれど、ぜひ旧交を温めたいね」
−彼が次期指導者になることについてどんな言葉をかけますか。
「ぼくとは無縁の世界のことなので」
−敢えて声をかけるとしたら?
「平和な世界をよろしく、と」
予見できない怖さ
実は今回、だれもが快く取材に応じてくれたわけではなかった。予見できない怖さが特に女子生徒に多かった。「いいわよ、彼は友人だから」と約束したのに、いざクルーが合流すると「ダメ」と言うことが続いた。母親にものすごい剣幕で「警察を呼ぷわよ」と怒鳴り散らされたこともある。スイス、ロンドンでの同級生取材は立て続けに空振りに終わった。
そのころ米国から「学校のサイトに警告が出た」とメールが届いた。赤字で「当校は当該生徒が在籍した事実以外はコメントしないことにした。皆も同じスタンスで臨むように」とあった。取材拒否の理由はこれかと思った。
怖さと言えぱ、北朝鮮側もわれわれに対し強い警戒感を抱いていたようだ。
正哲氏の当時の自宅を撮影後、警察に身柄拘束された。私は三百メートル先のカメラマンに「撮影を続けて」と合図した。彼は機転をきかせ、カメラを肩から降ろし電源を切るふりをして撮り続けた。いよいよ警官が近づき電源を切ったあと最も恐れたのは録画テープ没収だった。僕はテープをタクシー運転手に百フラン(九千円)紙幣を添えて手渡し「ホテルヘ届けて」と託した。
ディレクター、カメラマン、私の三人はその場で引き離された。私はパトカーの中で、本署との無線連絡(ドイツ語)で何を話していたのか警官に聞いた。「北朝鮮の外交官は君たちのことをひどく怖がっている。『外交官にこんなに接近するなんてまったく何てことだ』と。だから署に来てもらうのだ」という。
その前日、北朝鮮大使館撮影中も外交官に遮られていた。その出来事も警察に伝わっていた。昼食抜ぎで三時間の尋間を受けた。撮影目的は何か?われわれは「正直に全てを話そう」と打ち合わせていた。供述がピタリ一致すれぱ誤解は解けるだろう。
幸い話は友好的に進み署長は名刺交換後「何かあったら助けます」とまで言って署を送り出してくれた。民主国家でよかった。
さて、カメラマンは英語ができず苦労したようだ。なんとずっぼんぼんにされたという。われわれが丸裸にならなかったことを知り、彼は「やはり英語は必要だ」としきりに繰り返していた。
実はワシントンでポトマック川の橋の上から飛行機の着陸を撮影しているときもパトカーが二台来て一悶着があった。警察は同時多発テロ事件以降、過敏になっているようだ。
大使館の実力の差
入手したペルン国際学校の生徒名簿に日本人名が複数あった。勤め先は日本大使館だった。
かつて正男氏が成田から強制送還された際の外務省の対応を思い出した。当時、外務省は外交カードにせずすぐ追い返したどころか、金日空機ビジネスシートを全席借りきり北京まで外務省幹部が付き添うVIP待遇で送り屈けた。
主権侵害した重大犯罪者の帰国旅費を税金でまかなう感覚も疑間だが、CIAの声紋データ提供や英国諜報部MI6の通報で密入国を事前に知りながら対応しなかったことに心底驚いたものだ。
今回、外務省関係者と接触したら助けになるだろうか?答えは否だった。報道を望まない「北」の意を汲んで大使館、本省経由でテレビ局に「やめろ」と圧カをかけられては苦労が水泡に帰す。
躊躇なく取材対象から除外した。
名簿には米国大便館関係者も名を連ねていた。彼らの情報収集力と分析カはどこの国でも一目おかれている。
例えぱ〇三年民主党の菅直人代表(当時)が共和党要人に門前払いされ訪米自体を断念した。東京の大便館の政治部が本国に「ノー」と打電していたのだ。小泉政権を支持する意思表示でもあった。
ブッシュ大続領の明治神宮参拝も大使館の発案だ。実現すれぱ、日本の神道や靖国神社に非難を浴びせる中国に対し、旧敵でも相手国の伝統に敬意を払うことは一流国家の儀礼だと示せたろう(この希望を後退させたのは外務省だ)。
また、シーファー大使が先日、横田めぐみさん拉致現場を視察した。拉致解決を強く訴える安倍晋三官房長官の姿勢を強く支持するとともに、北朝鮮に対し「不正義は歳月を経ても解決されなけれぱならない」(同大使会見)と強いメッセージを送ったのだ。そうした機動力がかの国の大使館にはある。
正哲氏のスイス滞在中、米国大使館のことだからファイルを作って身辺情報を蓄積しただろうことは想像に難くない。
「骨折した私を運んでくれた」
取材が難航するなか、正哲氏のがっちりした体躯の持ち主であることを示す貴重なエピソードが、米ニューヨーク州バッファローに住む親への電話取材で飛ぴ出した。女子生徒が足首を骨折したとき軽々と抱き上げ運んでくれたという。
正哲氏の人柄を端的に表すこのエピソードを、私はぜひ本人からききたかった。しかし今までの経験ではいざクルーが行くと断られている。私たちは彼女の下宿先ヘアポなし取材を決行することにした。言葉は悪いが強姦取材という。もちろん取材は紳士的に行う。
フロリダ州オーランドの下宿先をノックし、「宿題がある」と渋る彼女に「十分だけ」と頼み込み撮影開始した。「大丈夫、顔は映しません」とどんどん話をきいた。あっけにとられた表情だった。
われわれが引き揚げた後、彼女は何があったのか?と首を傾げたことだろう。
−パク(正哲氏の偽名)はどんな人でしたか。
「物静かなやさしい人でした」
−助けてもらったそうですね。
「階段で転んだんです。先生は私が大丈夫なことを確認して、クラスの生徒数人に私を助けるよう頼みました」
−そのとき手を貸してくれた。
「ええ、歩けなくて階段下までかついでもらいました。骨折していました」
−彼は普段からそのようにやさしかったのですか。
「もちろん。物静かで優しい人でした」
−あまりしゃべらないのは性格なのか、それとも英語のせいなのか…
「英語もあるかもしれませんが、誰に対してもあまりしゃべりませんでした」
−彼が感情を露にしたことは。
「ありません」
−けんかを見たことは?
「怒る人のようには見えませんでした」
−北朝鮮の指導者の息子ですが、偉い人にありがちなわがままなところは。
「身勝手な人には見えませんでした」
−次期指導者の有カ候補ですが良いリーダーになると思いますか。
「ええ、おそらくそのための教育も受けて来たのでしょうから良いリーターになると思います。そう願います」
−女性的すぎてふさわしくないという意見もあるのですがいかがですか。
「全く女っぼくないと思います。小柄じゃないですし、男っぼいです。運動は得意な人で、そういう体格でしたから」
−助けてくれたときも?
「ええ、彼はカ強かったです。先生もカがある生徒を選んで助けをお願いしたんです。弟にそのことを話したら、彼が最初に言ったのは『ああ、奴は体が大きいからな』でした」
「父は幽霊だった」
「ヒー・イズ・ストロング」(彼はカ強いです)と強調するとき、彼女の確信ある表情をはっきり覚えている。そんな彼の内面はどんなだったろうか。
英語教師は、最初は取材を拒否したが説得に応じてくれ、正哲氏が十五歳から十七歳にかけての三編の詩(先の詩を含む)と一編の物語を提供してくれた。
過去について考える(15歳 九五年)
曇った日だった
雨が降った
ぽつぽつと油の悪臭が流れてくる
ずっとずっと向こうから
一人の少年が立っていた
何をしていいのかわからずに
悲しい顔をして
親指をしゃぶっていた
あるとき
雲から太陽が現れ
油の悪臭は消えた
一人の男の手が草原を走り回っていた
うれしそうな顔をしてポールで追っていた
何年か後
少年は背中に何かを背負わなくてはいけなくなった
学校のかばんだ
世界でもっとも重いもの。
なぜなら彼は学校が好きではなく
勉強をする気にならなかったのだ
すぺてが変わった少年はどんどん成長し
できる子になった
そう、すべてにおいて優秀な生徒になったのだ
スポーツもでき
成績もよく
鋼のような強い筋肉を持ち
ライオンのような心を持ち
とても勇敢だった
みんなが彼のことを知っておリ、とても有名になった
彼は挑戦人だった
七年生(中学一年生)在学時の英詩である。英語の授業でクラス全員が同じ題で書いた。七年生はふつう十三歳だが、正哲氏は学年を落として学んでおり十五歳だったとみられる。
正哲氏が創作した物語もある。こちらは、父親との微妙な関係が書かれている。
当時はまだ兄の正男氏(36歳)こそが後継候補と目されていた。
父は幽霊だった(15歳 九五年)
ある日、僕は奇妙な家でテレピを見ていた。その家は町にはなく、森の中にあった。町から山村へ、あるいは山村から町へ、旅する人のための家だった。
一晩だけぼくらばその家へ行った。僕の両親は隣室に入り、僕は一人になった。時刻は深夜十二時。その時刻で眠っていないのは僕だけだった。一時までテレビを見て窓際のペッドに横たわった。部屋は暗かった。月光が窓から注ぐ。空には星が見えた。寝ようとして目を閉じた。眠りに入ろうとした矢先、突然何かがサッと動いた。僕は目覚め、周囲を見渡した。絵、窓、ランプ、椅子、床のカーペット、何もかもが怖くなった。
心臓が割れそうに鳴リ始め、顔面蒼白になった。体は汗をかき、手は氷のように冷たくなっていた。二、三分後に自分を取り戻した。僕はまたペッドに横になり眠ろうと目を閉じた。
うまくいかなかった。だから窓の外を見て、星の数を数え始めた。そうすると簡単に静かにねむりにつくことができた。突然カーっという雑音が聞こえた。僕は体を起こして、ベッドに座った。両親のいる隣の部屋に行こうとした。奇妙な音が何回か聞こえ、怖くなったからだ。でも体が動かなかった。動いたのは頭だけで、周囲を見渡すだけだった。四時だ。突然カーテンが動いて、その背後に誰かがいるのに気付いた。その人物が言った。「テレビは見終わったのか?」
そう聞かれると、僕の目ほフクロウのように青く大きくった。もう雑音はなかった。すぐ部屋から出なければと思ったが、体は動かなかった。
カーテンの横の部屋の隅に、暗い一角があった。僕がそこに立てば、幽霊がカーテンから出てきて僕を殺していただろう。僕はこう思った。もし暗い、その隅に何かを投げつければ、幽霊は僕がその隅にいることがわかリ、ぼくをつかまえに出てくるだろう。
僕の横、ペッド上には人形があった。その人形を隅に向かって投げたが、幽霊は出てこなかった。僕は「臆病者よ、カーテンから出て来い!」と叫んだが、体が動かなかった。
奇妙な声がカーテンの中から出てきた。「そうか?それなら出て行くよ」。僕は驚いた。それで、僕はしゃぺり始めた。「冗談だよ。許してくれ」。すると誰かが笑った。誰だろうと思っていると、ドアが開いて、父親がニコニコ笑顔で入ってきた。父親に「カーテンの後ろに幽霊がいる」と言うと、父親は笑って冗談のように「おれがその幽霊さ」と言った。
さっき「そうか?」と聞いてきたのは、父親だったのだ。カーテンは風に吹かれて動いただけだった。僕は安堵して翌日正午まで寝た。
在学当時の一九九三、九四年、米朝の核協議がスイスのジュネープで開かれていた。
「合意された枠組み」が署名され、九五年には国際機関KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)が設立された。北朝鮮は、自国の黒鉛実験炉解体を条件に、核生産が困難な軽水炉二基と、完成まで代替エネルギーとして年間五十万トンの重油を受け取ることになった。
父親の側近たちが、核カードを巧妙に出したり引っ込めたりしながら実益を得ていく様子を、同じスイスにいた正哲氏はどうながめたろう。
当時、北朝鮮の麻薬密輸や通貨偽造などもとりざたされていた。正哲氏は「理想の世界があったら/僕は武器や核兵器なんか許さない/テロリストたちを/ハリウツドスターのジャン=クロード・ヴァン・ダムと一緒にやっつけてやる」。(前号「ぼくの理想の世界」)とも書いた。
詩や物語からは、国際的に非難されている父親の国策を十代なりに理解していた事実が窺える。
正哲氏の後継者としての資質
さて、われわれはこの正哲像をどう受け止めたら良いのだろう。
世間で言われているほどひ弱ではなく、むしろ筋肉隆々のスポーツマンだったことを示す写真を指さし、友人たちは「精神的にも強かった」と言い切った。
狂気、癒しプーム批判、家族などをキーワードとした切り口の論評で知られる精神科医の春日武彦氏(都立墨東病院精神科部長)は、独裁者にとって必要な資質の一つとして「孤独への耐性」を挙げる。
「しぱしぱ妄想や誇大的な自己愛が、耐性の裏付けとなる。金総書記はまさにそういった資質を持ち合わせた人物であるし、正男氏のオタクめいたマイペースぶりも耐性の高さを窺わせる。では正哲氏はどうか。スイス暮らしでの淡々としたなりに情熱を秘めた様子は、なるほど独裁者とはいわずともトップに立つ条件を備えているように見えます」
正哲氏がしたためた詩・物語を、春日氏に読んでもらった。
「『友達』『過去について考える』『僕の理想の世界』を読むと、素朴な理想主義と愛国心が意外なほど屈折せずにつづられていることに驚く。その素直さは、うまく周囲がコントロールすれば望むとおりのベクトルを持った指導者へ仕立て上げられる可能性を示しているわけで、正男氏よりもはるかに「都合の良い素材」かもしれません」
「興味深い詩は『父は幽霊だった』で、父への呆気ないほどの肯定ぶりがかえって戸惑わされます。十五歳の少年の詩で、最後の部分が『僕は安堵して翌日正午まで眠った』と書いてあると、その屈託のなさがよほど奇異に感じられます。そもそも屈託のない少年は詩など書かないものです」「ある種の『毒々しさ』の欠如が、後継者としての『素材の良さ』でもあり、また独裁者としては淡白すぎて将来裏目に出てしまう可能性を示唆しているのかもしれません」
指導者の資質を、ある北朝鮮専門家はこう語る。
「北朝鮮における後継者の資質とは、個人にしろ集団指導体制になったにしろ、金日成主席と国防委員長の思想・理論・方法を最も正確に具現化できるのが第一条件である。なおかつ人民感情として血縁関係があれぱ喜ばしい。
決定において、資質と血縁のどちらを優先させるのかというパランスは難しいが軍、党、行政の各指導部で主導権を取った集団が『資質がなくても血縁で推したい』と考えればそうなるだろう。
さらに学歴が重要である。共和国の伝統、風習、政権の正統性、帝王学を学ぶには共和国内の大学でなけれぱならない。その大学も、最高峰である金日成総合大学の政治経済学部でなければならない。金正日将軍がそうであったように、朝鮮革命遂行のためには留学は必ずしも必要ではないのである。
正哲氏が留学途中に突然姿を消した後、同大学に進学し卒業していれば後継者として認められることだろう。ちなみに、正男氏は同学部の卒業生である」
帰国後の進学先などは今後の取材にかかるだろう。
今回の取材に強力してくれた米国の大学生、ジェイソン氏(23歳)になぜここまで協カしてくれたのか尋ねた。「彼は次期指導者になるかもしれない。その彼についての番組をつくり、日本国民が彼について知るのは価値がある」
元校長からは、取材をまとめたテレビ朝日系「サンデープロジェクト」収録ビデオテープを送付後、丁寧な文面のメールが届いた。褒めの言葉を披露するのは恥ずかしいが、われわれが取材して得た正哲氏の人物像は本人そのものであることを伝えるためにそのまま記しておきたい。
「おめでとう。私は初め君たちがドキュメンタリーでチョルのことをある種の怪物(モンスター)として描くのではないかと懸念していた。番組はそうではなく質の高いジャーナリズムの一片だ。
番組が彼に対する理解を深め、極東地域の平和に寄与したと固く信じる。私に言えることは、自分の知るチョルが指導者になれぱ、あなたたちの世界は現在より格段に安定するだろうということだけだ。彼は非常に繊細で配慮が行き届き、物事を熟考する分別ある少年だった。今なおそうであることを祈るばかりである」
元校長の祈りは、そのまま大きく成長したであろう二十六歳の正哲氏へのメッセージでもある。
われわれは報道した。ここから先は、国民が彼を判断することであり、さらに政府が政策決定するだろう。
日朝間には、国交正常化の前に完全解決すべきことが多々ある。作文の中で正哲氏は核、麻薬、貧困にふれたが、留学後に明らかになった諸問題にはもう一つ重大な人権侵害があった−北朝鮮の国家意思に基づいて工作員が主権国家である日本の領内に不法侵入し、日本国民を拉致した事件だ。学校へ行き、夕方部活動を終えて帰ってくるはずの少女は帰宅しなかった−被害者の一人、横田めぐみさん(拉致当時13歳)の、親から引き離され北朝鮮で人生を送らなければならなかった大きな悲しみと不条理を、中学、高校時代を異国の地で過ごした金正哲氏が分からないはずはないと私は思うのだ。
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