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すばる 2007年2月号
特集「復帰」35年 オキナワの「心熱」
95年の事件で服役後、帰国。そして−
元アメリカ海兵隊員「自殺」の深層
06年8月。「元海兵隊員ケンドリック・リディット(31)が、アメリカで女性を殺害し、自殺」のニュースが報じられる。あの歴史的な反基地闘争のきっかけとなった95年の事件で、リディットは服役。帰国して3年後の「犯行」そして「自殺」だった。アメリカ現地取材で事件の謎に追る。
当惑と苛立ち
「バーバラ・キャノンさんのお宅ですか?あなたはケンドリック・リディットさんの、お母さんですよね?」
06年8月22日未明、アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション紙から、バーバラのもとに一本の電話が入る。記者はバーバラの返事を確認し、すぐこう続けた。
「息子さんが殺人事件に関わっていること、ご存知ですか?」
「何ですって?」
「すでに本人も自殺していますが、アトランタ警察から電話はなかったでしょうか?」
「いったい全体、何の話!?」
バーバラは大声で怒鳴り、「いかれた新聞記者」からの電話を乱暴に切った。
しばらくして、また電話が鳴る。ナンバーディスブレイを見ると先と同じ番号。バーバラは電話を無視したが、胸には困惑が広がっていく・・・。
ジョージア州南部にある小さな町にバーバラは住んでいる。
電話を切った数時間後、アトランタから娘夫婦たちが車を飛ばしてやって来た。「アトランタ警察からの電話」はバーバラではなく、娘(ケンドリックの姉)のキムにかかっていた。電話で事実を告げても母親は到底信じないだろう、そう思ったキムは、直接会って話すことに決めたのだった。
新聞記者が言ったのと同じことを娘の口から聞き、バーバラは血圧が上昇、その場に倒れこむ。病院で降圧剤を投与され、しぱらくすると落ち着いたが、薬の副作用と精神的ショックのためか、今度は嘔吐に見舞われたという。
事件はアトランタから60キロほど北に位置するケネソーという町で起きた。ケネソー州立大学の学生、ローレン・クーパー(22歳)が、住んでいたマンションで殺害されたのだ。傍らには「自殺」したケンドリック・リディット(31歳)の遺体があった。
ローレンの両親、ジャックとナンシーが住んでいるのは、マソションから車で20分ほど北に行ったウッドストックという町で、週末はよく娘に会いに行っていた。しかし、その週末はマンションや携帯電話に何回電話してもまったく連絡がつかなかったので、彼らは心配になり、合鍵を持ってマンションに向かった。8月20日午後7時18分、合鍵で部屋に入った二人が目の当たりにしたのは、凄まじい光景だった。白い冷蔵庫に血が飛び散り、壁も赤いペンキを撒き散らしたような状態だった。寝室に入ると、仰向けになった娘がいて、すぐそばには見知らぬ黒人男性が血まみれで倒れていた。ジャックの通報で、警官と救急隊員が駆けつける。救急隊員はローレンの死亡を確認し、腕に切り傷があるケンドリックの遺体を見て自殺と断定。警察はケンドリックがローレンを殺害後に自殺したと見て、事件を"murder suicide"(殺人・自殺。一種の“心中”)としたが、十分な捜査をしないで結論を出した警察に対し、クーバー夫妻はいまも苛立ちを覚えている。検死でも、ケンドリックの死亡推定時刻は口ーレンのそれより10数時間あと、と報告されているのだ。
遺体を発見して2日後、友人からの電話で夫妻はさらにショックを受ける。
「さっきニュースで聞いたんだけど、リディットって、95年に沖縄で少女に暴行を加えて有罪になった三人の兵隊の、一人なんだって?」
「貧者」と「聖者」?
ローレンとケンドリックは、ケネソーにほど近いスマーナという町にあるレストランの、アルバイト仲間だった。ローレンはウェイトレス、ケンドリックはファストフード部門のコックをしていた。ローレンはアルバイトを始めてから大学の成績が下がってきたので、両親からアルバイトを辞めないと実家に連れ戻すと言われ、1年ほどで辞めていた。一方、ケンドリックは最初は真面目に勤務していたが、次第に遅刻が増え、事件の前には解雇されていた。
ケンドリックは95年の事件で横須賀刑務所に服役し、03年にアメリカに帰国。1週間は母親のバーバラと一緒に暮らしていたが、それ以降はアトランタの姉夫婦の家に居候し、職探しをした。コックの仕事が見つかり姉の家を出たが、その後も知人の家などを転々とする。見かねた友人が廃屋同然の小さな家を無料で貸したが、電気も水道もなく、結局住める状態ではなかった。自分の車を持つ余裕もなかったが、車であちこち送り迎えしてくれるローレンに助けられた。二人がレストランを辞めたあとも彼女の親切は続き、ケンドリックを家に泊めたりもしている。ただそれは、「恋愛」ではなかったようだ。
「娘は本当に心がやさしく、人を疑うことを知りませんでした。人種などにはとらわれず、相手の長所しか見ない子だったんです。困っている人を見たら助けてあげないと気がすまない子で・・・」
母親のナンシーはむせび泣きながら語った。
父親のジャックの口調は、逆に静かなものだった。
「ジョージア州でも子どもに対する性犯罪で有罪になった人は、登録され、インターネットで誰でも確認できるようになっている。リディットは沖縄で犯罪を犯したので、登録されなかったのだろう。それで前科を知られずれず、レストランで働いてたのだと思う」
二人がいたレストランのマネジャーによれば、面接の際ケンドリックが持ち込んだ履歴書には、「沖縄の基地でコックをした経験あり」と書かれていた。だが彼が調理の仕事をしていたのは、横須賀刑務所にいた最後の2年間である。
ケンドリックの葬儀は、故郷の教会で行われた。集まった教師やクラスメートたちはみな、彼がいかにクラスの中心人物だったかを弔辞で述べたという。彼を教えた教師のひとりは、「ケンは本当に陽気な生徒でした。授業を脱線させようとして、冗談を言ったりおどけたり。私が引っかかるとクラス全体が抱腹絶倒したものです。あのケンが自殺するなんて、考えられません」
「殺人・自殺」として報じられたこの事件だが、矛盾する点がいくつか残っている。警察は、ローレンはケンドリックに絞殺されたと発表しているが、ローレンの体からは彼の指紋が一つも発見されていない。またジャックは、「リディットの携帯の留守番電話にドラッグディーラーらしき人物からのメッセージが入っていて、400ドルが未払いになっていたことがわかっている」と言うが、ケンドリックの血液からドラッグは検出されていない。二人が第三者の手によって殺された可能性も十分ある。しかし、その点からの捜査はまったく進んでいない。
帰郷
沖縄での少女暴行事件は95年9月4日、アメリカの祭日レイバー・デイに起きた。海軍上等兵マーカス・ギル(当時23歳)が、海兵隊一等兵ケンドリック・リディット(21歳)、ロドリコ・ハーブ(21歳)と一緒にレンタカーを借り、沖縄本島北部の商店街で買い物帰りの女児を車で拉致し、暴行。マーカス・ギルはすぐに罪を認めたが、ほかの二人は暴行はしていないと主張した。言うまでもなくこの事件がきっかけで、沖縄県では大きな反基地運動が起きている。
当時のことを、バーバラはこう振り返る。
「沖縄に駐留するようになってから、息子は週に一、二度は電話をかけてきました。『おふくろ、いま何してんの?』って」
いつも夜中の2時頃にかかってくるので、「こんな時間に、寝てるに決まってるでしょ」と言いつつ、それでもうれしそうに母親は電話に応じていた。
「95年9月のある日、いつもの明るい口調で息子から電話がかかってきて、『おふくろ、今オレがどこから電話しているか当ててごらん』って言うんです。『さあ、どこなの?』と聞いたら、こう答えました。"I am in a brig."」
brigというのは、俗語で刑務所の意味だ。バーバラはその言葉を最初は聞き取れず、何回も聞き直した。
「刑務所?そんなところで何してるの?」と母親に聞かれ、ケソドリックはこう答えたという。
「オレはやってない罪で捕まっている。すぐに釈放されるから、心配いらないよ」
1週間後の電話では、ケンドリックの口調はもっと深刻なものに変わっていた。やがてある団体からの連絡で、バーバラは息子の犯行の詳細を知る。
「私たち家族には、信じられない話でした。事実として受け入れることができなかったのです」
ケンドリック・リディットとロドリコ・ハープはともに、暴行自体はしていないと主張していたが、一審、二審で実刑判決を受け、最高裁に上告。だが96年10月には上告を取り下げ、有罪が確定した。
横須賀刑務所で6年半の服役。03年9月に出所したケンドリックは、母親を驚かそうと思い、連絡を入れずに実家に戻ってきた。バーバラは軍の指揮官から、「あなたの息子は24時間以内に釈放される」という電話連絡を受けていたが、どの便で帰国するのか、何時ごろ家に着くのかなどは全く知らされていなかった。
家に着いた時、ケンドリックは迷わず呼び鈴を鳴らしたが、母親は一向に出てこない。大きな音を立てて掃除機をかけていて、呼び鈴に気づかなかったのだ。母親が奥の方にいるのが見えたので、彼は家の裏に回った。バーバラは言う。
「家の裏で、息子はぴょんぴょんジャンプして、" Mom! I'm home. I'm home"と叫んでたんです。最初、窓に息子の顔が見えたり隠れたりするのを見て、幽霊かと思いました。もうすぐ帰ってくるとは知ってましたが、どうしても幽霊にしか見えなくて」
掃除機を止めると、紛れもなく、息子の声が聞こえた。二人は涙を流しながら、無言で抱きしめ合ったという。
95年の事件を思うとき、この再会の様子をあまりに無邪気に感じる人もいることだろう。いずれにしても、「幽霊に見えた男」はこの約3年後、多くの謎を残しつつアメリカで31年の人生を終えた。
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