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安藤美姫を復活させたモロゾフのコーチング術
選手熟知したトリック
荒川静香に金メダルを取らせ、安藤美姫にいち早く五輪代表の座を決めさせたコーチ、ニコライ・モロゾフ。必ず結果を出す彼の育成法は何が優れているのか。
(AERA 2010年2月1日号)
フィギュアスケートの五輪代表、安藤美姫と織田信成のコーチ、ニコライ・モロゾフ(34)に取材してコーチングの本を作る企画が持ち込まれたのは2007年夏だった。本人に申し込むと即快諾。年が明けて08年1月、アメリカ・ニュージャージー州の彼の自宅で1週間毎日、何時間もインタビューした。その後、世界各地で追加取材してまとめたのが、『キス・アンド・クライ』(講談社、2月2日発売予定)という本だ。「Kiss
and Cry」とは、フィギュアスケートの演技後、選手とコーチが並んで座ってスコア発表を待つ場所だ。
当初私は、フィギュアスケートのコーチは、ジャンプやスケーティングなど技術的なことを中心に教えるのだろうと思っていた。だが取材を進めるにつれ、この競技の過酷な本質がわかってきた。たったの数分で練習してきたことのすべてを出すためには、精神的なタフさや人間としての成長がいかに大切か。モロゾフはそれを選手に成し遂げさせている。彼のコーチング技法はスケート選手に限らず、マネジメントに携わる人や教師がどうしたら部下や生徒の力や才能を最大限に引き出せるかにも通じると痛感した。
五輪前にジャンプ禁止
まず彼が選手に徹底するのは、独立心と責任感を持たせることだ。どれほど優秀なコーチがついていても、銀盤ではシングルスケーターは自分しか頼れない。手取り足取り教えることは、頑強な精神の育成には逆効果。もともと「言われたことだけしかしない」性質の強い日本人は、さらにその傾向が強まる可能性もある。
独立心を持たせるためにモロゾフは、選手自身に目標を語らせ、それを達成するための計画も本人に立てさせる。彼はそれを「脳の手術をする」と呼ぶ。
「私は彼らが選手を引退したあとの人生のことまで考えて教えている。そのためには自分で考えることは非常に重要だ」
彼の手法は常識から見れば、ときには逆効果ではないかと思えるときもある。それが奏功するのだからまさに実践的心理学者という他ないだろう。
トリノ五輪で金メダルを取った荒川静香がモロゾフを訪ねてきたのは、五輪本番を3カ月後に控えた05年11月だった。その時点の荒川はどのジャンプも完璧にできなかった。徹底してジャンプの練習を繰り返すのがノーマルな発想だが、モロゾフは2週間ジャンプを禁じた。
突然、ジャンプを封印された荒川は混乱した。本来荒川はクリーンなジャンプをする選手だが、年齢とともに落ちた筋力のせいでジャンプのキレがなくなっていた。弱い筋肉のままいくらジャンプの練習をしても効果はない。メダルを取るためには、まずは筋力の強化だと説いた。
2週間毎日、荒川は水の入ったペットボトルを持ってひたすら滑った。結果的に荒川は金メダルを勝ち取ったが、大会3カ月前のモロゾフの判断は一見奇策に見える。
まず性格を見極める
ビジネスの世界でもそうだが、人間がモチベーションを維持するには、短期目標と長期目標の両方が必要だ。特にいったん頂点を極めた選手ほど、その地位の維持には、頂上を目指す以上の努力と精神力がいる。
モロゾフは会うたびに何回も繰り返した。
「長期目標こそが、継続を持続するための力の源泉である」
モロゾフは選手に長期目標を常に思い出させ、それを達成するためには何をすべきか逆算して選手に短期目標を立てさせる。だが、五輪で金メダルを取る、という長期目標が同じでも、短期目標は選手によって異なる。選手によって性格も特性も違うからだ。日本では均一な教え方をしがちだが、それでは当てはまる一握りの人しか上達しない。
高橋大輔はまだ無名時代、モロゾフの元に来た。モロゾフがまずしたことは高橋の性格の見極めだった。
「わかったのは、大輔はプレッシャーに強い美姫と違って、本番に弱い。だから、短期目標は当然彼女と違う」
トリックでリラックス
マネジメントでも、すべての部下に同じ対応をすれば、伸びる部下もいれば、つぶれる部下もいるだろう。
モロゾフはしばしば「trick」という言葉を使う。「トリック」とカタカナで書くと「策略」というような否定的な響きを持つが、英語では「物事を上手にする秘訣」という意味もある。だが、トリックを使うためには、選手の特性、性格、バックグラウンドを知悉していることが前提だ。
私が思わず抱腹絶倒した高橋大輔のエピソードがある。高橋は大会前になると、そのことで頭が一杯になり、トレーニング
しすぎる傾向にあった。本番前に息切れしては元も子もない。だが、トレーニングしすぎるな、思いつめるなといくら口で言ってもなかなか効果はなかった。
ある海外での大会前。モロゾフは共同でコーチを務めていた長光歌子に、トリックを成功させるために協力を頼んだ。長光が持ってくるはずだったプログラム用の音楽を忘れたことにしてもらったのだ。飛行機に乗った途端、長光とモロゾフの演技は始まった。
「音楽を家に忘れた!」
と叫ぶ長光に、モロゾフは怒鳴った。
「一体どうすればいいんだ」
高橋はその瞬間から大会のことよりも音楽のことで頭が一杯になる。もちろん現地での練習直前には、音楽はちゃんと持ってきていたことは伝える。すると、高橋は安堵感に満ち溢れ、リラックスして練習したという。
コーチになるために
少し手が込みすぎているが、感服ものだ。選手生活は練習が中心の単調なものだ。日々のトレーニングメニューをこなすだけでは精神が持たない。モチベーションがなくなればすべてがおしまいだ。
モロゾフはこう言う。
「完璧な人間はいない。常に変化をつけながら、単調さがもたらすストレスから解放させてあげなければならない。これはコーチの仕事だ」
マネジメントの立場にいる人は、部下の性格や能力を熟知して、思いつめさせないようにトリックを使う必要がある。
「日本はみんなを同じ方向に向けさせようとする。それが日本文化と言われるかもしれないが、私から見ると信じられない。人間は一人ひとり違う。同じ方向に向くはずがないものを向けさせようとするのは間違っている」
モロゾフが思いつくトリックはどれも、各選手のことを熟知して考え抜いたものだ。自分はコーチになるために生まれてきたと言って憚からない。彼の手法は人を成長させるための模範のようにも見える。私はこれが教育の本質だと思う。
(文中敬称略)
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