SAPIO 1997年8月6日号
インド現地取材ドキュメント

誰も書かなかった女盗賊プーラン・デヴィ 「復讐と虐殺」の現場

今や国会議員となった反カースト制度のヒロインは、べーマイ村で何を犯したのか
生存者ほかの証言から悪夢の真相に迫る

文・写真/ジャーナリスト大野和基


96年6月、インドでは半世紀にわたって続いた与党体制が崩壊し、力ースト制度撤廃を掲げた左派勢力を中心とする13党連立政権が誕生した。この統一遷挙で時代を象徴するヒロインとして登場したのかプーラン・デヴィだった。

彼女は下層力ースト出身で、小学校6年生の頃に20歳以上も年の離れた男と結婚させられたが、強要されるセックスに耐え切れずに家出。その後、盗賊団に連れ去られるが、やがて自ら盗賊団の女ボスとなり、かつて彼女を強姦した男たちが暮らすべーマイ村へ乗り込み、復讐のために20人以上を虐殺したのである。

1981年に起きたこの「べーマイ村の虐殺」事件は、下層階級の女による上層階級の男たちへの凄絶な復讐として世界中でセンセーショナルに報じられた。2年後の83年、彼女は司法取引に応じて投降し、1年後の94年、仮釈放で出所、96年の統一蓬挙に立候補して当選を果たした。現在は“女性の地位向上”を訴え、国会議員として活動している。

この波瀾に富んだ半生は自伝『女盗賊プーラン』としてまとめられ、世界中で紹介されると同時に映画化もされて彼女は“虐げられた人々の代弁者”として神格化されていった。しかし、プーランヘの痛烈な批判もある。べーマイ村の虐殺にまつわる復讐話はすべて提造であり、彼女は単なる血に飢えた殺戮者で、国会議員に立候補したのも57件(内37件は殺人)にのほる罪状の免除を狙ったものだ、と。はたして彼女は本当に正義のヒロインなのか。プーラン本人への直撃取材をはじめ、インド各地を取材したジャーナリスト大野和基氏のレポートは"女盗賊伝説"の真相を鮮やかに描き出す。



自伝『女盗賊プーラン』がベストセラーとなり、日本でも一躍有名になったプーラン・デヴィ。彼女の正確な年齢はわからない。マスコミでも記事ごとに年齢が異なるほどで、日本語版の自伝には「1958年頃生まれる」と書かれているだけだ。

プーランは、インド北部にあるグルカプルワという小さな村で生まれた。現在の村の人口は150人ほどだが、それでも10年前に比べれば2倍に増えたという。いまだに電気も通じておらず、電話をかけるには30q以上も離れたカルピという町まで足を運ばなければならないような未開の地だ。この村で暮らす人のほとんどはマッラーという下層階級で、プーランももちろんその階級の出身である。

プーランは日本でいえば小学校6年生の頃に、20歳以上も年上の男と結婚させられた。セックスを強要され、結婚生活に耐えられなかったプーランは、夫のもとを逃げ出したが、今度は盗賊に連れ去られてしまう。そして盗賊団の一員となり、ついには盗賊団のポスになった。

83年に司法取引に応じて投降。当初の約束より3年早い11年の刑務所生活を終えると、96年のインド統一選挙でサマジワディ党から立候補し、見事に当選して国会議員に −− これまでの彼女の人生は、まさに波瀾万丈だった。

『女盗賊プーラン』は、刑務所から出所するまでの半生を描いたものだが、彼女自身は字が書けないため、口述筆記で書かれた。原本はフランス語に翻訳され、日本語版はその英訳から、さらに和訳されたものだ。その中でプーラン・デヴィは、カースト制度に挑戦したヒロインとして描かれている。事実、彼女が国会議員になれたのも、そうした身分の低い下層階級の支持を得てのものだったし、さらに自伝をもとにした映画「盗賊女王』が彼女の政界入りとほぼ同時に封切られると、彼女は「虐げられた人々の代弁者」として神格化されてしまった。実際、映画に感動したイギリス労働党のミルドレッド・ゴードンなどは、ノーベル平和賞に推薦すべく、委員会に書簡を送ったほどだ。
だが、果たして彼女は本当に“正義のヒロイン”なのか。自伝には記されていないが、彼女には罪もない人を“虐殺”した過去があるという。その事実を確かめるため、私はインドで取材した--。


プーランをヒロインにしたカースト制度

虐殺事件に触れる前に、プーラン・デヴィが挑戦したとされる、インドのカースト制度について説明しておこう。カースト制度の起原は3000年以上も前、インドにアーリア人が進入してきた時代に遡り、この頃すでに貴族階級と農民階級の社会的区別がついていたという。以来主に職業に基づいて、何千ものサブ・カーストが発生した。

この制度は、実際にはヴァルナとジャーティーというふたつを包括して言うことが多い。ヴァルナとは元々「色」を意味し、皮膚の色で身分・階級の区別をしていたことを示すもので、大きくばバラモン(司祭)、クシャトリア(王族、武士)、ヴァイシャ一(農牧商に従事する庶民)、シュードラ(奴隷民)の4つに分かれる。

一方、ジャーティーは「生まれを同じくする者の集団」という意味で、15世紀にインドにやってきたポルトガル人が、ジャーティーを「カスタ」と呼んだことから、カーストという言葉が生まれたという。

イギリス領から独立して3年後の1950年にできたインド憲法は、カーストによる差別を撤廃したが、それはあくまで建前にすぎない。大都市部ではかなり薄らいではきたものの、9億という人口の約7割を占める村落部では、いまだに根強く残っているのが実情だ、たとえば下層カーストの人間は、上層の者が通うヒンズー敦寺院には入れない。同じ井戸も使えない。異なるカーストが一緒に集まる場合、下層の者は地面に座る。そしてあらゆる最終決定権は、上層カーストの村長が握っているのである。

最近では教育の割当制度を利用し、下層階級でも教育を受けてきちんとした職業につき、中層階級まで上がっていくことも少しずつだが可能になってきた。経済改革のために産業化が進むと同時に、新しい職業が生まれて、カーストの階段を上る機会も増えている。だがそれはあくまでも都市部での話で、産業化がまったく進まない村落では、いまだに下層カーストの人々は上層カーストの土地で耕している。たまに上層カーストの上地を奪おうとする動きが起こっても、上層カーストに属する警察がそれを鎮圧するという構図が、そのまま残っているのだ。

プーラン・デヴィが釈放された94年には、インド北部の町ベラールで、こんな事件が起きた。小売店主が上層カーストのティーンエイジャーにタバコを売ることを拒否したことがきっかけで、階級間の激しいもみ合いとなり、5人が死亡。その後ほとんどの下層カーストの人々が、その村から出ていってしまったというのである。

だが近年になって、政治の世界でカースト制度にまっこうから挑戦し、下層からはい上がろうとする動きが活発になってきた。94年にばヒンディ・ベルトと呼ばれるインド北部のウッタル・プラデシュ州で、下層階級による遵立政権が誕生した。この時、州長官に就任した社会党のヤダブ元党首は、プーラン・デヴィの立侯補を強カに後押しした人物でもある。

そして96年には、半世紀にわたって続いた与党体制が崩壊、階級差別撤廃を叫ぶ左派勢カを中心とした13党連立政権躯誕生した。ちょうど賄賂にまみれたスキャンダルが次々に暴露され、政治家の辞任劇が毎月のように起きるなど、政界自体が混乱していた時期で、下層カースト出身のプーラン・デヴィが時代を象徴するヒロインに祭り上げられていったのも、当然、といえば当然のことだった。

だがそのことで、犯してきた罪が消えるわけでは決してない。


自伝に書かれなかったべーマイ村での虐殺

プーラン・デヴィが、上層カースト以外の何の罪もない人々をも虐殺したとされるのは、べーマイ村での出来事である。べーマイ村は、ニューデリーの東南500qにあるカンプール市からさらに西へ110qほど行った所にある。ジープでもたどり着けない辺境の地で、もちろん地図にも載ってはいない。

45世帯ほどの小さな村で、プーラン・デヴィの属するマッラーよりも上の、タクールという階層に属する人々が住んでいた。

その村で起きた惨劇について、自伝には、『その日、20人以上の男たちが殺された。みなタクールだった』、としか書かれていない。誰が、なぜ殺したのかについては、いっさい触れられていないのだ。

タクールはカーストでは上層の階級である。この記述からは、自分たちを虐待してきた彼らに対する復警だったとすることで、その虐殺を正当化しようとする意図が臭ってくる。

私は事件の真相を知るためにべーマイ村を訪れた。村に通じる道は途中、深い溝に遮られ、そこから5qは歩いていくしかなかった。以下は、取材した目撃者の話をまとめたものであるーー。

一部の報道では、べーマイ村でプーラン・デヴィが連続強姦されたから、その復警に行ったとされているが、それは事実ではない。プーラン・デヴィが虐殺を行なう引き金になったのは、同じ盗賊団で生まれて初めて恋をした最愛の男、ヴィクラム・マラーを殺した別の盗賊団の長、シュリ・ラムヘの復警だった。自ら盗賊団を結成したのも、シュリ・ラムに復警するにはその方法しかないと思ったからだという。

シュリ・ラの盗賊団がべーマイ村に隠れているという情報がインフォーマ一(密告者)から入ってきたのは1981年2月7日ごろのことだった。シュリ・ラムの盗賊団は規模が大きく武器も充実しているため、プーラン・デヴィは他の盗賊団にも協カを呼びかけ、ベーマイ村に向かったプーランの一行は優に80人を超えていたという。

そして2月14日午後2時頃、プーラン・デヴィら盗賊団は、村に通じるヤムナ川の浅瀬を渡り、べーマイ村に乗り込んだ。プーランは警察の副所長が着る3つの銀の星のついたカーキ色のコートに、ブルーのジーンズ。肩からステンガンを下げ、胸には弾丸をベルト状に巻き、片手には大きなハンディフォンを握っていた。髪は断髪だが、真っ赤な口紅を塗り、爪まで真っ赤に塗っていたという。彼女の後ろには、20人ほどの子分が従っていた。

プーランたちは村こ乗り込むやいなや、村を閉鎖し、子分たちは村中に散らばった。プーランは村の中央にある共同井戸の前に立ち、ハンディフォンのスイッチを入れてこう叫んだ。

「みんな井戸のまわりに集まれ。今から焼きを入れてやる。よく聞け。命が惜しかったら現金も金も銀も全部持ってこい。私はシュリ・ラムとララ・ラムに仇を討ちにきた。やつらを私の目の前に連れ出せ。出さないと銃をお前らのケツにつっこんで、裂いてやるぞ。私がプーラン・デヴィだ。私の名前をよく覚えておけ」

プーランは子分の男たちと一緒に、片っ端から家に乗り込み、男たちを銃で殴り、足で蹴とばしながら引きずりだした。その時、プーランは、「私はヴィクラム・マラーの仇を討ちにきた」と叫んでいたという。

夫と義父、義兄の3人を殺された主婦のスリデビは、家を作っている最中だった。そのうちの1人はタクールではなく、イスラム教徒だった。スリデビは、
「サファ・モハメッドはタクールではありません」
と叫んだが、プーランは、「どうしてここでイスラム教徒が働いているんだ」
と言いながら、かまわず運れ出した。

連れ出されたのは男たちばかりだったが、家の中では、女も子供も容赦なく殴られた。プーランに壁に激しくぶつけられ、脊髄を傷めて身体に障害を負ってしまった赤ん坊もいた。他の盗賊たちもプーランと同様に暴行、略奪を繰り返し、男たちを連れ出した。村中が悲鳴と叫び声で修羅場と化していた。

連れ出された男たちは、共同井戸の前に集められ、ぞの前でプーランが怒鳴った。
「ヤツらがどこに行ったか言わないと、みんな生きたままローストにしてやるぞ」
村の男たちは、「神に誓って、ヤツらのことは見ていない。だから助けてくれ」
と嘆願したが、プーランは「嘘をつけ!」と言って男たちのターバンをもぎ取り、銃で急所を殴りつけた。

それから村の入り口から20mほどヤムナ川寄りに行った土手のところまで男たちを歩かせ、土手の前に一列に並んで立たせた。
プーランは突然、「万歳!我々に勝利を!」
と叫び、「しゃがめ!」と怒鳴ったかと思うと、わずか7,8mしか離れていない場所から、いきなり一発目の銃弾を放った。弾は見事に命中し、1人が即死した。男たちは泣きながら、
「いったい、オレたちが何をしたというんだ。シュリ・ラムに復讐したければ、罪のない我々を殺すのではなく、ヤツを殺せばいいじゃないか。何を持っていってもいい。お願いだから、殺さないでくれ」
と救いを求めたが、プーランは容赦なく銃を撃ちまくった。他の盗賊たちも口々に
「万歳!我々に勝利を!」
と叫びながら、続いて銃を撃ち始めた。

銃の乱射は1時聞ほど続き、20人がその場で即死、1人が病院に運ばれる途中で死亡した。生き残ったのはわずか3人。死んだ男のうち、タクールは17人だった。

プーランたちは、
「万歳!プーラン・デヴィ。万歳!」
と、叫びながら立ち去っていった。

夜7時、負傷した男たちは牛用の荷車に乗せられて村を出、4時間もかかってラジプールという町に到着した。そこで通りかかったトラックに助けられ、カンプールの病院に運んでもらった。生き残った3人のうちの1人、クリシャン・スワループが言う。

「私は列のほぼ真ん中にいました。銃口が向けられた時には、もう絶対に死ぬと思い、意識が薄れて涙があふれてきました。盗賊の撃った弾が当たったとき、死んだふりをして倒れました。その後、他の人がどんどん撃たれて、私の体の上に死体が重なってきました。それでももう一発当たりましたが、上に乗った死体に助けられ、致命傷には至りませんでした」

撃ち終わった後、盗賊たちは生き残っている者がいないかどうか、倒れた男たちを罵倒しながら蹴飛ばし、動くかどうかを調べていたが、スワループは死んだふりをして逃れたのだった。だが、一緒にひきずり出された、学校の教師をしていた兄の命はなかった。

伝説によれば、プーランの恋人、ヴィクラムは、プーランに口癖のようにこう言っていたという。
「同じ殺すなら、1人ではなく、20人殺せ。20人殺すと有名になるが、1人だけだと殺人者として処刑されるだけだ」

この事件の第一報がカンプールに属いたのは、翌日になってからだった。情報を受けたヒンダスタン.・サマチャー・ニューズ・エージェンシーのベテラン記者、シャイヤム・ディキシットがべーマイ村に着いたのは夕方7時頃。その時、男たちの死体は放置されたままだったという。

シャイヤムは翌日の新聞に間に合わせるために3時閲ほど犠牲者の家族や目撃者に取材し、カンプールに戻った。
こうして大虐殺のニュースは世界中に流され、べーマイ村は一夜にして有名になった。

現代インドでの、盗賊による最大規模の虐殺であること。女性がリーダーであること。そして下層カーストの女性がはるかに階級の高いカーストの男性を殺害したこと。事件はこの3重の意味で、ショッキングな出来事だった。


いまも燃え続ける遺族たちの憎しみ

私が訪れた時、村の虐殺現場には記念碑が建てられ、射殺された人たちの名前が刻まれていた。その向かい側の、プーランたちが銃を撃った場所には、コンクリートの壁が建てられていた。

事件から16年たったいまも、遺族たちのプーラン・デヴィに対する憎しみは変わらない。3人の家族を失ったスリデビは、涙声で怒りを訴えた。

「もし私が殺人を犯せば、絞首刑になるか終身刑になるでしょう。それなのにプーラン・デヴィは自由に歩き回っています。どうして?
プーランも女ですが、私も女です。彼女は貧乏だった。私も貧乏です。私は4人の娘を自分の手だけで育てましたが、結婚させることは不可能です。でも、プーランは何もかも手に入れています。お金、上地、警察の保護--。
この村には何があるのでしょうか。病院もなければ、まともな道路もありません。橋もないし、大きな学校もありません。電気も水道もありません。
これが正義といえるでしょうか。もし、これが正義といえるなら、すべての女性の殺人者は、プーランのように釈放されなければなりません」

サントシは、夫を殺されたばかりか、娘も身障者にされた。
「プーランたちが家に乗り込んできた時、夫が引きずり出されるのを止めようとして、プーランの前に跪いて頼みました。でも彼女は家中を荒らし回り、まだ4か月だった娘を見つけると、つかみあげて壁に向かって投げつけたんです。娘は脊髄をひどく傷め、それ以来、身障者になってしまいました。息子のララーンと一緒にカを合わせて家族を育ててきましたが、畑もないし、あるのは2,3頭のヤギだけです。
私が死んだら、身障者の娘の面倒を誰が見るのですか。どうしてプーランが我々に対して犯した罪で、罰を受けないのでしょうか。正義を求める私が間違っているのでしようか」

たしかにプーランは同情を集めた上に、映画の製作に協カして多額のお金を手にし、議員にまでなった。一方、べーマイ村に残された人たちには、何も残っていない。

犠牲者を代表するグループを作ったセンガーが言う。
「プーランのイメージは、ずっとアッパーカーストのタクールに抑圧された、下層階級の女性のイメージでした。でも実際はそうではない。彼女はそのイメージを政治家になるために利用しただけなのです」

実際、プーラン・デヴィがべーマイ村で殺害したのは、復讐すべきシュリ・ラムではなく、無実の人ばかりであり、その中にはタクールでない人問さえ含まれていたのである。


盗賊としてのプーラン・デヴィ

ところでプーラン・デヴィは、インドの盗賊団のなかで、どんな位置にあったのだろうか。プーランが仮釈放された時に後見人を務めたカリヤン・ムケールジーは、インドの盗賊団でも"王様"と呼ばれるマルカン・シンに密着取材し、盗賊の実態を本に記した人物だが、その彼が言う。

「世界中の人が勘違いしていると思いますが、プーラン・デヴィは、政府から見て、逮捕すべき盗賊のリストで上から12,13番目といったところでした。彼女の盗賊団は規模は小さいし、罪の数もたいしたことがない。ターゲットになったのば、やはりべーマイ村の事件があったからです。他の盗賊は、もっと極悪非道な罪を犯していますよ」

盗賊の価値は、逮捕された時に出る懸賞金でわかると言われる。プーラン・デヴィの懸賞金は自伝には10万ルピ(約34万円)と書かれているが、ムケールジーによれば、
「たしか2万5000ルピーぐらいだったと思う。マルカン・シンは50万ルピーでしたから、いかに彼女の価値が低かったかがわかると思う。彼女は射撃も下手で、盗賊としては誰からも尊敬されていません」
という。不思議なことに、盗賊団同士での縄張り争いはなく、むしろ助け合う関係にある。マルカン・シンはプーランの盗賊団によく小麦を届けたが、それも食料に困っているだろうという同情からだったようだ。

プーランが長年収容されていた刑務所に行く途中の町で出会った45歳の元盗賊、ナルバット・シンは、誇らしげにライフルを見せながら、彼女のことを評してこう言った。
「過去にもプーラン・デヴィ以外に、2,3の女性リーダーに率いられた盗賊団があった。プーランは、別にたいしたことのない、ありふれた盗賊の1人だ。誰もが尊敬している、もっとも立派な盗賊は、なんといってもマルカン・シンだよ。あなたのようなマスコミが書き立てなければ、プーラン・デヴィという名前さえ聞いたことがなかったと思う」

盗賊団には貧しい人まで略奪し殺す破壌的な集団もあれば、金持ちから略奪し、貧しい人に分け与える義賊的な盗賊団もいる。プーラン・デヴィも、一応は後者のものとして位置づけられていた。だが、べーマイ村での虐殺の他にもプーラン・デヴィが殺した人間は11人にのぼる。盗賊団の殺戮としては多くないのかもしれないが、罪のない人聞も手にかけてきたことだけは事実である。


「他人が罪と呼ぶものを私は正義と呼ぶ」

私はプーラン・デヴィに直接インタビュー-する機会を得、べーマイ村での事件の真相を彼女に質した。だがプーランは、
「今、法廷で争っているところなので、それについては何も語れない」
と口を閉ざすばかりだった。一方、それとは対照的に、議員となったことについて話す時は、かなり饒舌だ。

「立侯補することは、まだ刑務所にいる頃から漢然と考えていましたが、その考えは現われたり消えたりしました。でも社会奉仕をするには、権力がないとできない。
権カを持つには政治をやるしかない。それで政治家になってダリット(不可触民)や虐げられた人を助けようと考えたのです」
彼女を支えたのは、下層カーストから州長官になり、現在は国防相を務めているヤダブ杜会党党首だった。ヤダブ党首は罪人を候補者にしたことで、政治の犯罪化を促進すると痛烈な非難を受けたが、プーラン自身は、ミルザプール区から立候補する隈り絶対に負けることはないと確信していた。プーランと同じカーストが多い同区では、戦う前から軍配が彼女に上がっていたも同然だったからだ。

「私自身も経験したことですが、この地区は貧困と、上層カーストによる差別と虐待にうちひしがれています。そういう経験をした、人々は、私というピッタリの代弁者を見つけたのです」

プーラン・デヴィは、当選した暁には、抑圧的な警察に対して教訓を与えるために、内務大臣になりたかったというのだが、96年6月1日に13党連立政権が発足し、いざその機会が与えられると、彼女はなぜかそのポストを断わっている。その理由はこうだ。
「私は読み書きができないので、大臣になるのは無理です。もしなったち、私の評判を落としたい人に付け込まれそうな気がします」

国会議員になってしばらくの間に、政界に対して失望感を感じ始めたという彼女だが、女性問題に関しては、すこぶる鼻息が荒い。
「強姦は、殺人よりも極悪な犯罪です。強姦犯は犠牲者を生ける屍にするからです。こういう犯人は社会で生かしておくべきではありません。もっと重い罪にすべきです。それに、政治や政府の仕事でも、女性が半分を占めるべきです。女性は夫や法律の犠牲になって自殺するのではなく、反撃すべきです。女性の忍酎にも限界があります。今でも田舎では、女性は動物のような扱いを受けているのです」



プーラン・デヴィが立候補を決意した大きな理由の一つは、議員になると罪を免除されるからだと言われている。
現在、プーラン・デヴィが出所しているのは、あくまでも仮釈放という形で、57(そのうち殺人は37)のすべての罪が許されたわけではない。そのなかにはもちろんべーマイ村での虐殺も含まれている。法に基づいて公正に裁判が行なわれれば、57の罪の一部は無罪になるかもしれないが、いくつかの犯罪では有罪になることは聞違いない。だがプーラン・デヴィがあまりにもタイミング良く時代を象徴するように登場してきたため、「これ以上法的な責任を追及する必要はないのではないか」というムードがあることも確かだ。
彼女が議員候補者としてサマジワディ党に指名された時、ヤダブ党首は、ウッタル・プラデシュ州の州長官として、プーラン・デヴィに対するすべての裁判を取り下げるように命じている。同党にすれば、低層カーストの問で支持を得るための絶好のチャンスだったからである。
インドで罪人が政界に入るのは、プーラン・デヴィに始まったことではない。インドの週刊誌『アウトルック』の調査でも、39人の議員が罪を犯しており、そのなかには4人の大臣も含まれている。彼らの未裁決の犯罪の種類を見てみると、殺人、殺人未遂、陰謀、汚職、誘拐がある。プーラン・デヴィの場合は、もちろん殺人だ。
これまで虐げられてきた低層カーストの人たちや、女性が政治の世界に進出することは、誰の目にも重要なこととして映るだろう。だが、これほどの罪人が立法者になること淋許されるとは決して思えない。
「他人が罪と呼ぶものを、私ば正義と呼ぶ」とプーラン・デヴィは言う。彼女の“正義”とは、自らの行為を美化し、正当化することなのだろうか?



関連書籍
女盗賊プーラン
女盗賊プーラン〈上巻〉
プーラン デヴィ (著)
草思社 1997年2月

女盗賊プーラン
女盗賊プーラン〈下巻〉
プーラン デヴィ (著)
草思社 1997年2月
 
 
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