ジェフ・ウィリアムス/Jeff Williams
独占インタビュー
「栄光のJFK」ジェフ・ウィリアムス
「さらば、阪神タイガース」

殺人スライダーを武器に7年間にわたり甲子園を熱狂させてきた。最強リリーフ陣「JFK」の「J」が見たタイガースの愛すべき仲間たち。
(週刊現代2010年3月6日号)


金本、下柳に説得された

「7年間日本でプレーして、とくに印象に残っているのは最初の年のオープン戦での一球だ。(横浜の)金城(龍彦)が空振りしたスライダーが、(大きく変化して)彼の体に当たった。このことはいまでもはっきり覚えている。それ以降、どのバッターも私の投球に対して踏み込んでくることができず、守りの姿勢になっていったからだ。私は『これ.なら日本で成功できる』と思った。

それから’03年9月(15日)の広島戦に赤星(憲広)のサヨナラヒットで勝ち、(セ・リーグ優勝へのマジックとなって)スワローズが負けるのを甲子園球場で待っていたときのこともよく覚えている」

米アリゾナ州フェニックス郊外にある自宅でジェフ・ウィリアムス(37歳)は阪神のメンバーとして闘った7年間について語り出した。ウィリアムスは’03年から’09年まで、タイガースのリリーフ投手として大活躍した。とくに’05年からは藤川球児、久保田智之とともに「JFK」.と呼ばれる最強リリーフ陣の一員となり、他チームから恐れられた。しかし’09年のシーズン終了後、阪神は彼の退団を発表した。ウィリアムスは現在、故障していた左肩の手術を受け、リハビリ中である。

−あなたに「移籍してこないか」と声を掛けた当時、阪神の成績は低迷していました。入団に不安はありませんでしたか。

ウィリアムス 絶好の機会だと思ったね。調子の悪いチームに入るほうがはるかに楽だ。というのもあとは成績がよくなるしかないからね。チームの助けになる絶好のチャンスだ。結果的に金本(知憲)や下柳(剛)の活躍もあって、1年でリーグ優勝するところにまでチームを引き上げることができた。

−入団の際、起用法について球団となにか取り決めをしましたか。

ウィリアムス こちらからはまったくリクエストをしなかったね。チームを信じでいた。とにかくピッチャーができればどんな役割でもいいと思っていた。

−’05年、「JFK」の誕生によって、あなたの役割はクローザーからセットアッパーに変わりました。降格されたとは思いませんでしたか。

ウィリアムス そういうふうには考えなかったな。自分が監督であれば同じことをしただろうから。藤川は明らかに複数のイニングを投げる能力があったし、真っ直ぐで相手をねじ伏せる能力も持ち合わせていた。対して私は明らかに左バッタトを抑える能カが誰よりも
あった。そして久保田はクローザーにとても向いている牲格の持ち主だった。私にとって、「左の強打者をやっつけてほしい」と言われたとき、それが7回であろうと8回であろうと同じことだ。

−’07年のシーズン終了後、ヤンキースなどメジャーの球団から移籍しないかという誘いがありました。なぜ残留したのですか。

ウィリアムス 私は本当に自分を必要としているチームでプレーしたかった。阪神は私にぜひ残留してほしいと言ってくれた。ペイカットを通達されたから、決意するのに時間がかかったが、金本、下柳、藤川、矢野、桧山(進次郎)らに残ってほしいと説得された。

−昨年、久保田が先発に転向したため、JFKは解散となりました。あなたにとって’09年のシーズンでしたか。

ウィリアムス 辛い年だった。JFKが解敵になったからではなく、シーズン最初から左肩に間題があったからだ。肩が思うように動かなかったので、コントロールが定まらず不安定な年だった。JFKの解散にはもちろんがっかりしたが、何事も永久に続いてほしいと思ってもそうはならないのが現実だ。


星野と岡田、そして真弓

−’03年は星野、’04〜’08年は岡田、’09年は真弓と3人の監督とプレーしています。それぞれどんな印象をもちましたか。

ウィリアムス 3人の監督は全然違う。星野監督は偉大なるリーダーだ。すばらしい。常についていきたいと思わせるようなリーダーだ。「おれの判断を信じろ。正しい方向に導いてやる」と言わんばかりのオーラが出ている。星野監督とはわずか1年の付き含いで、彼
の判断に同意できないこともあったが、そのスタイルには常に賛同できた。彼は自信を持って我々を導いてくれた。

岡田監督は星野監督とはスタイルが違った。最初に来たときは何を考えているのか、まったくわからなかった。彼は試合のすべての部分をコントロールしたがっていた。そして他の誰の判断にも振り回されずに決断する。岡田監督はすべての点においてチームの秩序を保ち、行くべき方向にきちんと持って行った。それは決して素早くはなかったが、方向は正しかったと思う。真弓監督については、残念ながら彼のことを十分知るチャンスがなかった。

−あなたが対戦した打者で最も手強いバッターは誰ですか。

ウィリアムス ジャイアンツ(当時)の小久保(裕紀)は非常に手強い相手だ。とくに’05はそうだった。彼が打てないボールをみつけることができなかった。普通どんなバッターでも弱点があるものだが、彼の場合はどんなボールを投げても打たれた。失投を捉えられることはあるが、彼の場合はそうではない。いま彼は少し年を取って、スウィングスピードが落ちているだろうから、アウトにすることができるかもしれない。彼以外では横浜(当時)の石井(琢朗)もアウトにするのが難しかった。彼はバットを大振りしない。いつもコンパクトにスウィングしてファウルボールを続ける。本当にやりにくい選手だった。

−最も尊敬する選手は誰ですか。

ウィリアムス 金本と下柳の二人を尊敬しないではいられない。彼らがどれほど努力をしているか知っているからだ。彼らを見ていると私もやる気が出てくる。あのくらいの年齢でプレーを続けられるのはオフ・フィールドで厳しいトレーニングをしているからだ。それは並大低のものではない。

その他に、カープの野村(謙二郎・現広島監督)をいつも尊敬していた。彼のプレーぶりは誠実そのものだった。自分のためではなく、チームのことを真っ先に考えている人だ。昨シーズンで引退したドラゴンズの立浪(和義)も尊敬すべき選手だ。何かなすべきことがあるとき、いつもそれをやるのは彼だった。真のプロフェッショナルだ。


阪榊にはエースがいない

−今シーズンの阪神のメンバーをどう評価しますか。

ウィリアムス 攻撃陣は’09よりはるかによくなると思う。ピッチングについては外国人選手が重要な役割を果たすことになるだろう。阪神にいま欠けているのはエースだ。真のナンバーワンとナンバ一ツーだ。登板したゲームの8割は勝てるというエースピッチャーがいない。岩田(稔)がその候補だったかもしれないが、昨年、故障をしてしまった。能見(篤史)はいい成績を残したが、今年はさらに自信をつける年になるだろう。それでも現在の阪神にはユースに値するような選手がいない。

−練習方法などで「なんでやねん」と戸惑ったことはありますか。

ウィリアムス 最初に戸惑ったことは何でこんなに疲れるまで練習するのかということ。どうして1日1000回もゴロを拾わないといけないのか、ということだ。何で毎日200球も投げて、しかもそれを1週間も続けないと休めないのか。そのときは、繰り返すことによって本能的にプレーができるようになると考えているから、そういう練習をしているのだと信じた。でも私はいやだった。

−監督やコーヂが何を言おうとしているのか、わからなかったことはありませんか。

ウィリアムス 入団して最初の2〜3年は指示の意味がわからなくても、どういうことか聞くことはしなかった。というのも尋ねることは相手のプライドを傷つけることになると思ったからだ。ただ他の選手のことについてはなぜあいつがあんなことをやらされているのかと質問することはあった。例えば、10‐4で勝っていて先発投手が7回まで投げていたとする。ブルペンにはフレッシュなピッチャーがたくさんいる。でも監督は8回も9回も先発に投げさせる。私から見るとなぜそこまで疲れさせるのか、わからない。

−チームメイトで一緒に食事に行くような友人はできましたか。

ウィリアムス 下柳だね。彼は本当にすばらしいセンパイ(日本語で)だ。彼よりもすばらしいセンパイはいない。プロフェッショナルに徹していて真剣に仕事をし、礼儀正しい。私は彼を大いに尊敬している。食事に行った際、支払いはいつも彼だった。それが日本
ではセンパイのすることだ。私が財布を出そうとすると「自分がおごるのが日本スタイルだ」と言われた。だから江草(仁貴)や渡辺(亮)、藤川、久保田のような自分よりも若い投手と外食するときは、年に2〜3回だが、私が必ず払うようにした。

−現在、あなたは何をしていますか。

ウィリアムス ファンに知ってほしいことは、私は日本に戻ってもう一度投げたいと思っているということだ。いまリハビリをしているのは、日本に戻ってプレーするため。特に阪神ファンのために投げたい。もし阪神がダメというなら他の球団でも構わない。応援してくれた日本人にもっと恩返しがしたいと思う。7年も住んで妻にも日本に多くの友人ができた。3人の子どもにも「いつ日本に戻るのか」としょっちゅう訊かれるんだ。

 
 
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