イアン・マキュ-アン/Ian McEwan
9・11後の「不安な1日」を描いた『土曜日』
(週刊新潮 2007年12月27日号)

現代イギリスを代表する作家、イアン・マキューアン(59)。その邦訳最新刊『土曜日』(新潮クレスト・ブックス)の舞台は、他ならぬ“現在”だ。9・11を機に同時代への興味をそそられたというこの手練れの作家は、映画を観ているように脳に映像が浮かぶ緻密な描写を通して、時代から何を切り取ったのか。ジャーナリストの大野和基氏がインタビューした。


マーティン・エイミスと共にに現代イギリスのもっとも偉大な作家の一人であると言っても過言ではないイアン・マキューアンは、短編集『最初の恋、最後の儀式』(1976年サマセット・モーム賞受賞)でデビュー、続いて78年に短編集『ベッドの中で』を上梓した。その内容は、幼児殺しといった猟奇的なもので、読者にショックを与えるが、その後の作品をみても、マキューアンの不気味さは消えない。

マキューアンは『アムステルダム』で1998年に、ブッカー賞を受賞するが、今まさに全米で公開されている映画「Atonement」の原作『贖罪』が、彼の作品で最高傑作であることは誰もが認めているにもかかわらず、この壮大なスケールの長編小説がプッカー賞を逃したのは理解に苦しむ。

この作品に、一部剽窃の疑惑がかけられたとき、トマス・ピンチョンが「これくらいで剽窃の疑いがかけられるのなら、歴史小説は書けない」という趣旨の書簡を英デイリー・テレグラフ紙に送り、それが公開されたことは有名な逸話である。

さて、『贖罪』の舞台は1935年に設定されているが、今回邦訳が出版された『土曜日』は2003年2月15日に舞台が設定されている。その1日の出来事を小説にしたのである。

脳神経外科医ヘンリー・ペロウンの1日であるが、舞台は、マキューアン自身の自宅がある、ロンドンの中心部フイッツロヴィア地区だ。彼の自宅は、ジョージアン様式の建物がずらりと並んだスクエアの角に位置するが、主人公のぺロウンは、不思議な高揚感を覚えて目を覚ます。窓から夜空を見ると、彗星と勘違いするような光が空を横切っていく。それは、2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件を彷彿とさせるかのように、飛行機がエンジンから火を噴きつつ、ヒースロー空港に向かっていく光景だ。

ペロウンは、アッパー・ミドルクラスの外科医として成功し、2人の子供に恵まれた幸な結婚生活を送っている、まるで小説の主人公にはふさわしくない人物である。23歳の娘デイジーは新進の詩人で、18歳の息子シーオは、天才的な能力のあるブルース・ミュージシャン。妻のロザリンドは新聞社の顧問弁護士で、夫婦は結婚して25年近くも、お互いに深く愛し続けている。

これほど完璧に見える家庭であっても、時代から逃げることはできない。時代は、9・11の同時多発テロ事件後、不安と恐怖に陥った社会の中で、イラク侵攻に向かっていく。その中でぺロウンの1日は、次第に異常な様相を呈していくのだ。冒頭の飛行機が火を噴く光景こそ、この作品の中心的テーマを象徴しているが、何もできないでいる自分は安全な場所から、それを傍観するしかない。私生活と外の世界とのはざまに生きるしかないのだ。

家から一歩出ると、そこに外の世界が待ち受けている。スカッシュ・ゲームをするためにベンツに乗って出かけようとすると、イラク侵攻に反対するデモに直面繭。それを避けるべく迂回しようとしたときに、ささいな交通事故に遭う。相手の車に乗っていた3人は即賠償金を要求するが、その中のバクスターという悪漢をペロウンがみたときに、ハンチントン病の初期の兆候を見つける。

それ以降の話は本を読んでいただくとして、マキューアンは、この『土曜日』を書くきっかけを次のように述べる。「“現在”を舞台にした小説をかなり前から書きたいと思っていたが、テーマが見つからなかった。“現在”(the present)が、恐ろしいほどに興味深いことに、ずっと気づかなかった」“現在”のおもしろさを考える嚆矢となったのが、9・11の同時多発テロ事件だ。

「あの事件が起きてから世界は変わった。しかし、事件が起きたとき、それを使った小説を書こうとは主わなかった。テロ事件は2001年だったが、翌02年は、いろいろな資料本を読み、人と会い、人の話に耳を傾けた。そしてイラク侵攻がきっかけとなって、それに脳神経外科医の日常生活を組み人れて、小説にしようと思った」

小説のビジュアル性

日常生活は、ささいな出来事がランダムに起きることで成り立つが、マキューアンは、作家の役割はそのランダム性に意味を持たせることだと言う。
「人生全体が、そういうささいな決断から派生することが多い。そのパーティに行かずに家にいたら、今の妻と結婚していなかったかもしれない。それほど人生の出来事ははランダムに起きるものだ」

マーキュアンの小説作法は、的確な緻密さにある。
テーマからずれない的確さは他の作家をよせつけそうにないが、"現在"に舞台を設定することで、緊張感が出てくるという。
「9・11事件のあと、アフガニスタン侵攻があり、欧米の都市がずっと緊張に包まれた。この自宅の周辺では、イラク侵攻に反対するデモがあり、ロンドンの中心だけでも100万人以上の人がデモ行進をした。それを目の当たりにしたとき、この日こそが、小説の舞台に設定する日だと直感した」
ぺロウンは、かなリ多くの点でマキューアン自身と重なっているが、小説に出てくる母親も、マキューアンの母親と重なり、認知症にかかっている。

小説はノンフィクションと違って、多くの場合、テーマが先に存在し、自分の考えを登場人物に言わせることができる。
「9・11事件のあと数カ月は小説を一切読まなかった。イスラムについて、帝国主義について、中東についての本をずいぶん読んだ。なぜあの事件が起きたのか、少しでも理解したかったからだ」

主人公のペロウンは、脳神経外科医として典型的な、理屈好きな人物で、物事を分析し、文学を嗜むことを知らないが、娘が詩人であることで、家族全体としてバランスが取れすぎているきらいがあるほどだ。
マキューアンの作品ばどれをとってもそうだが、描写がが映画をみているようだ。現在上映中の『贖罪』を含め、いくつかの作品は映画化されているが、彼自身、小説のビジュアル性に非常に重きを置いている。
「我々はみんなビジュアルな生物だ。脳のほとんどの部分はピジュアルな処理をしている。だから、読者が活字を読みながら、映像を脳にビビッドに描くことは非常に重要だ」
映画化の可能性を考えて小説を書いている、といった方が正しいかもしれない。
一人っ子として育ったたマキューアンだが、02年には異父兄弟がいることが明らかになり、おまけに前妻との親権争いで、私生活も波乱万丈だ。
最新作『On Chesil Beach』は、Bad Sex Award(性描写が多い作品に贈られる賞で、今年は、故ノーマン・メイラーが受賞)にノミネートされ、話題になった。マキューアンの緻密な創作活動は、まだまだエネルギッシュに続くだろう。
 
 
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