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南部陽一郎・シカゴ大学名誉教授
祝・ノーベル物理学賞受賞
「私の理論を理解できなかったアインシュタイン」
(月刊現代 2009年1月号)
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スウェーデンの王立科学アカデミーは、08年のノーベル物理学賞にシカゴ大学名誉教授の南部陽一郎氏(87歳)を選んだ。授賞理由は、物質の最小単位である素粒子の「対称性の自発的破れを発見」したことで、理論物理学の発展に大きく貢献したと評価された。妻・智恵子さんの健康上の理由のため、12月10日にストックホルムで開かれる授賞式をやむなく欠席することになった南部氏に、シカゴ大学の研究室で独占インタビューした。
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− 授賞の運絡を受けたとき、どんな気持ちでしたか?
南部 驚いただけです。まさかと思いました。毎年この時期になると授賞の話が出ますが、それが30年も続いたわけですからね。家内も最初「これは詐欺でしょ」と言いました。「冗談でしょう」とも口にしました。ノーベル賞授賞の知らせが(必ず在宅している時間ということで)朝5時の電話によって届けられることは、シカゴ大学の研究者の間では有名ですから(シカゴ大学には82人のノーベル賞受賞者がいる)、ウソの電話がかかってくることもあるんです。過去に実際にそういうことがあったことは同僚から聞きました。
− ウソでないことがわかったのは、どうしてですか。
南部 30分くらい経ってあちこちから(お祝いの)電話がかかってきましたから。
− そのときは寝ていたのですか。
南部 そりゃ朝5時ですからね。
− なぜ「発見」から、授賞まで30年以上もかかったと思いますか。シカゴ大学のウェプサイトには、「南部氏は、時代よりもはるかに先を行き遇ぎて、その貢献の重要性が認識されなかった」と書かれていますね。
南部 そりゃそうでしょうね。あまりにも先のことを予言していましたから、誰もその重要性がわからなかったのでしょうね。
− 日本でも30年ほど前に南部さんの薯書『素粒子の宴』(工作舎刊)が出版されましたが、すでにそこで今回の授賞対象となった「発見」について話をされていますね。この本は先日復刊されましたが、その中のH・D・ポリツァー氏(2004年に「強い相互作用の理論における漸近的自由性の発見」によってノーベル物理学賞を受賞)との対談ですでに「対称性の自発的破れ」について語っています。これこそがノーベル賞の授賞の対象になった理論ですね。
南部 そうです。1960年代に考察したアィデアです。
− この対談の中では、牛が草を食べるときの例を挙げて説明ざれていました。「対称性の自発的破れ」について、よりわかりやすく解説して下さいませんか。
南部 ノーベル賞授賞の連絡を受けて、その日の朝シカゴ大学で記者会見をしたんですが、自宅から会見会場まで歩いていくと、何十人という記者や、パパラッチのようなカメラマンが、私を取り囲みながらついてくるんですよ。こんなことはもちろん初めてですけどね(笑)。会見会場に着いて思いつくままに話を始めたのですが、そのときにも「対称性の自発的破れとはどういうことか」という質問が出ましたから、こう説明したんです。「会見会場で、みんな一方向を向いていますが、物理的に考えるとどっちを向いてもいいはずです。そのときにすでに対称性の破れが起きている。そして1人が別の方向を見ると、それが波となって全体に伝わり、みんながそっちの方向を見る、それもすでに対称性の破れです。これが南部構想の『波』というものです」と。「どっちでもいいけれども、一方に偏っていたもののどれかが別の方向に動き出すと、それが波となって他に伝わる」というのが「対称性の破れ」の特徴です。新しい一つの発想です。
「父親の書斎」に教わって
− 南部さんは少年時代、どんな子供だったのでしょうか。
南部 父親が、子供のための科学の雑誌を買ってきてくれて、よく読みましたね。よく覚えています。そこには物理だけではなく、動物、植物、生物など幅広い分野のことが出ていました。
− お父さんは理科系の人でしたか。
南部 いいえ、文学青年でしたね。父親は福井の仏壇屋の倖で、家を継ぐはずだったんですけれど、そんなものはいやだと言って家を飛び出したんです。それで一度は東京にやってきたんです。小説家になるのが夢だったようです。父親は「人間が人生でかかわるあらゆることを知らないと書けない、サイエンスもその一つだ」と私に言っていましたね。そういう考えの人だった。
− 南部さんも、理系も文系も得意だったと聞いていますが。
南部 どちらにするか悩むくらい、どちらもできました。
− 『素粒子の宴』の中で、エジソンにあこがれていた、と話していますね。
南部 子供のころは、いわゆる物を作ったり、発明したりすることに興味がありました。エジソンが私の英雄だったんです。
− 小学生のときの成績はどんなものでしたか。
南部 よかったでしょうね。できない課目はありませんでした。高校のときも苦手な課目はありませんでしたね。
− 英語もかなり得意だったと聞いています。
南部 語学は好きでしたからね。学校の授業とは関係なく、勉強するわけです。理科でも数学でもそうです。父親の書斎にいろんな分野の本があったからできました。父親は何でも知らないといけないという考えの持ち主でしたからね。あらゆる本を集めていました。そこにこっそり入って本を取り出して一人で勉強していた。だから、私がラジオを作り始めたことも父親は知らないと思います。屋根裏で勝手にやっていたからです。
− エジソンみたいですね。
南部 物置みたいなところで組み立てていました。私の叔父が、アマチュア無線が好きで、様々な材料を集めていたので、それを祖父母の家でみつけて、勝手に取ってきて作っていました(笑)。そうした部品や商品にはマニュアルがついていて、数式が書かれています。でもそれは大学生がやっと理解できるようなレベルのものだから、小学生ではわかるはずがない。それを解読するために、一生懸命自分一人で考えました。ほとんどわからなかったけれども、そういうことが非常に楽しかった。理解しようとチャレンジすることに惹かれたのです。
「天才でないと理解できない」
− 福井の旧制中学から一高(現在の東京大学教養学部)に進まれましたが、学生時代はどんな生活をしていましたか。
南部 思い出すと、一高時代は、自分の人生で一番楽しかった時代でした。全寮制で、ひとつの部屋に8人くらい入るんです。ベッドの大きさは畳一畳でした。毎晩みんなで集まって「自己の発見」について話し合う。「自己とは何ぞや」ですね。それがわかることが最高の目的で、最初の目的でした。明け方まで話し合うんです。いまの時代の子はそういうことをしないでしょうね。夏目漱石の作品について、朝まで語り合ったあと、眠いから今日は講義に出るのをやめようと、授業をサボったこともありました。自分にとって徹夜談義のほうが重要だった。同じ部屋に文系、理系の学生が入り交じっていたからおもしろかった。
私は田舎出身で、東京出身の人が多い中、劣等感がありました。やはり物を知らないと感じていたのです。当時は軍国主義で、学生は映画をみてはいけないと決められて、父兄などが町をパトロールしているような時代です。だから私は渋谷の喫茶店に友だちと入っても、コーヒーの飲み方も知らなかった。見かねた店のおやじが「砂糖はひとつかふたつ入れるもんですよ」と教えてくれたことを覚えています。
− 英語もでき、数学もでき、科学もでき、そういう中で、最終的に物理をやろうと決めたのはいつですか。
南部 それは大学に入る前に決めました。そのころ、湯川さん(秀樹・元京都大学教授・1949年にノーベル物理学賞受賞)の存在が大きくなり始めました。それが一つの刺激になったわけです。私が研究を始めたころは、湯川学派と坂田(昌一・元名古屋大学教授)学派の影響が非常に強かった。湯川さんは哲学的な考え方を非常に強く主張されていた。坂田さんももちろんそうでしたね。私もかなり影響を受けました。
− 学者として湯川さんを追い越そうと考えたのですか。
南部 いえいえ、湯川さんが何を研究していたかは知らなかったんですが、自分にとって刺激になったということです。数学を究めていこうかと考えたこともありましたが、数学のような抽象的なことに一生を費やすのはいやだと思い直しました。やっぱり自分で物を作ることが好きでしたからね。物により近い分野の勉強をしていこうと考えて、物理を選びました。
−素粒子については、いつから研究を始めたのですか。
南部 東大には素粒子論がなかったんです。大学の最後の年に仲間数人と、湯川さんと朝永さん(振一郎.1965年ノーベル物理学賞受賞)に、これについて勉強したいと申し出ました。ところが最初に言われたのは「素粒子については、天才でないと理解できない」ということでした。一度ははねつけられたんです。それでも執拗に頼んだら、一応受け入れてくれました。
発見の根本は好奇心
− 子供のころ印象に残っている先生はいますか?
南部 私が育った福井というところは田舎でして、軍国主義に染まっていた。小学校3年生のころだったと思いますが、まるで武士のような先生が来て、男子生徒だけを担当しました。その人が国民道徳の授業のとぎに、「どうやって腹を切るか」を教えるんですね。そういう時代でした。教師になるには普通、資格を取りますね。昔だったら師範学校に行ってそれを得るのでしょうが、理由はわかりませんが、私の通った中学校にはそういう先生はいなくて、みんな自分で勉強して検定試験だけ受けて、先生になった人ばかりでした。そういう人たちはみんな強い個性を持っていて、授業の進め方も一人一人違うんです。それが非常におもしろかったですね。例えば、歴史の先生は講談師みたいな人で説明が物語になる。ローマ帝国が滅びたのが1453年で、イシ(14)とゴミ〈53)になったというんですね。そういうことはいまでも覚えています(笑)。理科の授業で、男女の性を扱うときに、植物や動物のことを例に挙げて説明していくのですが、精子が「抜き手を切って泳ぐ」と表現する人がいた(笑)。いまの教師でそんな説明の仕方をする人はいません。だからこそ、そういう授業のことは忘れられない。知識が自然に身について、楽しかったですね。最近の教師は教科書に沿って、カリキュラムに従って授業をやらないといけない。でもそういう職業的教師はおもしろくないでしょう。
旧制中学を卒業して一高に行きました。そこにはあとで東大の先生になった有名な数学の教師がいて、確かヘルマン・ワイルの『数学と自然科学の哲学』を訳している菅原正夫という先生ですが、この人が自分が崇拝する数学者の話をする。ガロア、アーベル、ポアンカレの例を出して、「おまえたちは、25歳までに何かしないとだめだ」とカツを入れるんです。数学ば特に早い時期に才能が芽を出すことが多いとされますからね。私は当時18歳くらいでしたから、あと7〜8年しかないと思いました。日中戦争が始まり、陸軍士官学校に行く人もいる。彼らも「人生25歳」と言っていた。そういう暗い時代だったんです。でもこのころ、一人一人の先生から受けた影響は私にとって大きかった。みんな個性溢れていましたからね。
− 本はどのようなものを読んでいましたか。
南部 当時岩波文庫がちょうど出たばかりで、思春期のときに最初に買って読んだのが、ツルゲーネフの『散文詩』と『猟人日記』の2冊でした。いまでもその本は持っていますが、非常に感動した覚えがあります。それから、やはり岩波の『行列と行列式』を買ってきて、自分で勉強したこともよく覚えている。中学3年のときでした。勉強は人から習うものではなく、白分でやるものである。考えて自分でやるという習慣がついていましたね。根本にあるのは、好奇心ですよ。その好奇心が現在でもあって、新しい発見が次から次へと生まれてくるんです。ただ受賞対象になった理論の発見はあまりにも早過ぎたかもしれません。
「科学嫌い」が多い理由
− 30代で日本を出て、その後アメリカ国籍までとられたのですが、それはどんな理由からなのでしょうか。
南部 シカゴ大学にここまで世話をしてもらったこともあるし、市民権がないと不便なこともあるからです。特にアメリカから学会などで海外に出るときはややこしいですね。アメリカに戻ってくるときに、いちいち出張理曲などを説明しないといけない。市民権があるとそんな面倒はない。それにシカゴ大学の研究環境は最高です。あの時代といまを比べると、日本での研究環境は天と地の差があります。
− シカゴ大学では全体で82人、物理学だけで28人ものノーベル賞受賞者を輩出しています。物理だけでも、日本人受賞者(15人)よりも多い。それについてはどう思われますか。
南部 シカゴ大学ができて以来教授は120名くらいしか出ていないはずですが、その大学で82人が受賞しているんですから、すごいもんですよ。ノーベル賞をとってもあまり関係がないというか、受賞して当たり前という感じですね。
− 一方、日本ではどうしてノーベル賞受賞者がこんなに少ないのでしょう。
南部 研究を始めるのが遅かったんでしょうね。蓄積がないとなかなかできませんから、日本人がノーベル賞をたくさん受賞するようになるには時間がかかると思います。環境を変えたからといってすぐに天才が出てくるわけではありませんから。
− 最近、子供や若者の科学離れということが言われていますが。
南部 いまは実際に若者に接していないので、よくわかりませんが、最近の商品は壊せなくなっていることが原因ではないでしょうか。分解しても基盤があるだけで、おもしろくない。壊れたら捨てるしかない。我々はすぐに自分で直そうとしますが、いまの商品の多くはそれができなくなっている。でも私はいまでも分解してやっていますよ(笑)。それにいまは、刺激物がいろいろと多すぎて、科学はその一つにすぎないことも理由に挙げられるでしょう。昔は興味を持てる対象が少なかった。この点はしようがないと思いますね。
−日本の高校では物理で挫折する人が多いですが、なぜだと思いますか。
南部 昔はすでに選抜されたエリートしか高校に進まなかった。でも、いまは猫も杓子も、勉強したくない人まで高校に行きます。だから挫折するんです。
− やはりノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈さんが、ノーベル賞を受賞するための五箇条をまとめています。@いままでの行きがかりにとらわれてはいけない。A大先生を尊敬するのはいいが、のめりこんではいけない。B無用なものは捨て、自分に役立つ情報だけを取る。C自分を大事にし、他人のいいなりになる人間にはならず、ときには闘うことを避けてはならない。Dいつまでも初々しい感性と知的好奇心を失ってはならない。この五箇条をどう思われますか。
南部 だいたいその通りだと思いますが、Bの「自分に役立つ情報だけを取る」はどうでしょうか。
ひらめきはいつ生まれるか
− 南部さんはプリンストン高等研究所に在籍したときに、アインシュタインと話をしていますね。
南部 きっかけは、私と同じような研究をしていたことから文通するようになったエール大学のカウフマンという人が、アインシュタインの秘書になったことでした。私は彼女に頼んでアインシュタインに会わせてもらおうと思ったのです。そうしたら彼女はすぐにその機会を作ってくれました。これが1回目で、2回目はアインシュタインの『晩年に想う』(講談社刊)の翻訳を一部引き受けたときです。その本をもって、アインシュタイン本人のサインをもらいにいきました。アインシュタインは私に何に関心があるか尋ねてきたので、量子力学について一生懸命説明したのですが、それは彼にとっては取るに足らぬことだったみたいです。でも彼は私の説明を理解できていなかったと思いますよ。彼は自分の関心事を私に話して、量子力学を信用していないことを必死に説明しようとした。そのとき、アインシュタインの考えは間違っていると私は思いました。でも彼はどうしても量子力学を受け入れられないというんです。これは彼の信念でした。
物理学の世界には英雄というものがいないから、我々はアインシュタインを崇拝するということはないんです。みんな同志であり、誰が上にいるとかということもない。一般の人は、アインシュタインを崇拝するかもしれませんが、物理学の中では我々と同じ立場なのです。
− 南部さんは素粒子論だけでなく、物理の分野でいろいろ予言されていますが、なぜそれが可能なのでししょうか。
南部 人がやっていることを追いかけるのではなく、自分で新しいことを見つけようとしているからでしょう。テーマに何を選ぶかは直観ですね。その力を養うには、ずっと考えることです。私はずっとずっと考えています。考えていないときはありません。
− ひらめきというのはいつ生まれるのでしょうか。
南部 ひらめきというのは非常に重要ですが、これはずっと考えているから生まれるものです。たまに考えても生まれません。ただひらめいても、私の場合はメモをとらないので、忘れてしまうこともありますね(笑)。それほど几帳面ではありませんからね。思うに、寝ている間にひらめきが生まれるのではないかと思います。その間にいろいろ考えていたことが整理されるのではないでしょうか。
授賞に対しては複雑な気持ち
− 今回の授賞式に出席されないと聞いていますが、どうしてですか。
南部 家内が病気で、置いていけませんからね。夏から調子が悪いんです。私も体力がなくなっているから、10日間も海外でどんちゃん騒ぎをするのには耐えられません。ノーベル賞をもらったある同僚に欠席することを話したら、「それは非常にいいアイデアだ」と賛同してくれました。ただ授賞式で、私の代わりに誰かが授賞対象になったテーマについて話さないといけないんですが、その人選が終わっていません。代理を探すのも大変です。
− 「発見」から30年以上も待たされていますが、例えば20年前に授賞が決まっていたら、出席できましたね。
南部 そりゃそうです。
− ノーベル賞に対して複雑な気持ちがあるんじゃないですか。
南部 そりゃありますね。複雑ですよ。
− ノーベル賞を授賞する順序が、おかしいというか、南部さんのあとにもらうべき人が先にもらったりしていると感じませんか。専門家は、やはりおかしいと思っているんではないでしょうか。
南部 それはあるでしょうね。でも物理の世界で何が起こっているか、選考委員会がすべて把握しているわけではありませんから。先日も「南部さんにノーベル賞をあげるほどノーベル賞も格上げになった」というメールをもらいました。一つ言えるのは、ノーベル賞とは人にあげるものではなく、人の仕事にあげるものだということです。こういう業績があり、実際にその正しさが証明された、というと出しやすい。
− いまの正直な気持ちは?
南部 ほっとしたというよりも、ちょっと嫌気がさしたという気持ちです。あまりにも周りがうるさくなったから。生活が変わってしまったからね。
なんぶ・よういちろう 1921年東京生まれ。
東大理学部卒。52年に渡米し、58年シカゴ大教授に就任する。70年に米国籍取得。78年文化勲章受章 |
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