文芸春秋 1999年3月号
野村証券巨額損失(2400億円)事件
すぺてを知る男独占告白
イーサン・ペナー(米国野村グループ・CCA元社長)
インタピュー・構成 大野和基
証券界のカリバーに何が起きたのか?キーパーソンが初めて重い口を開いた
金融ピッグパンのトップランナーと言われた野村證券が揺れている。
野村證券の海外拠点が半年間で二千四百億円を超す巨額損失を出していたことが発覚し、証券界に大きな衝撃が走ったのは、昨年十月中旬のことだった。
巨額損失の最大の原因は、氏家純一社長が米国現地法人「ノムラ・ホールティング・アメリカ」(NHA)のトップだった時代に立ち上げた、米国でのCMBS(商業用モーゲージ担保証券)と呼ぱれる金融商品ピジネスの失敗だったとされる。
CMBSは、オフィスビルやホテルなとの商業用不動産のローン債権を小口に証券化して、格付けを取得し、投資家に販売するピジネス。野村證券が外資系証券会社で唯一ウォール街で成功した会社と称されたのも、このCMBSビジネスの成功によるところが大きかった。
CMBSの旨味は収益性の高さにあった。野村證券の場合は、豊富な資金カを背景に、デペロッパーが不動産物件を開発する資金の融資まで自ら案行していた。つまり、野村證券はCMBSという金融商品を作るうえでのローン債権も自らの手で作り出していたのだ。
しかしCMBSは市況に左右されるピジネスのため、当たれぱ利益は大きいが、当然その反対もある。昨年八月十七日、ロシアの通貨危機に端を発した世界的な金融市場の混乱はアメリカにも深刻な影響を与えた。アメリカの投資家は一斉にリスクのある商品を売り叩き、安全な米国債へと乗り換えたためにCMBS市場は暴落した。
特に野村證券は、融資の金利収入と証券化による手数料を稼ぐという「二重の収益構造」になっていたことが災いして傷口を広げた。証券化されていないローン債権の在庫が不良債権化しかねないからだ。
このCMBSピジネスを一人で作り上げ、野村證券に巨額の富と損失をもたらした人物が、現在三十七歳のイーサン・ペナー氏だった。昨秋に巨額損失が発覚するまでは、野村證券に五年間で十五億ドルの利益をもたらし、「金融の神童」「ウォール街で最も成功した金融マン」など、まさに現代版アメリカン・ドリームの体現者の名をほしいままにしていた。
昨年十月二十二日、九月期中問決算発表に際した記者会見で巨額損失の経営責任を問われた氏家社長は、「今回の損失は、予想の範囲を超える市場の激変に起因している。世界の金融機関のトップがだれも正確に予測し得なかった」と述べ一、損失の責任の所在を明確にしなかったぱかりか、ペナー氏の名前を口にすることもなかった。
ペナー氏の責任に言及すると、それが結局は米国野村のトップだった自らの管理責任に返ってくるからであろう。
そのため、なぜ巨額損失が出たのか、損失額はとの程度で収まるのか、誰に責任があるのかなどを巡って、市場関係者の間で様々な情報が乱れ飛んだ。格付け機関による野村證券の格下げが相次ぎ、野村の資金調達を不安視する声が上がった。いまだに野村證券はその詳細を明らかにしておらず、全容は依然として闇の中にある。
三〇〇〇万ドルの「退職金」
そうしたなか、私は巨額損失の鍵を握る人物、イーサン・ペナー氏に単独インタビューを申し込んだ。ペナー氏は野村證券の巨額損失が明るみに出る直前に米国野村を退社しており、その際に三〇〇〇万ドルの「退職金」を受け取っている。退職金としてはあまりにも額が大き<、「手切れ金」「口止め料」とも囁かれた。
ペナー氏は野村を離れて以降、いかなる取材にも応じていなかったが、ほぽニカ月にわたる説得の末、今年に入り取材に応じることを了解した。
ペナー氏は米国野村を離れた後、サンフランシスコに「ペナー・グループ」と.いう新会社を設立していた。
昨秋、野村證券の巨額損失が発覚した直後に取材を申し込んだとき、彼はこう言ってインタビューを峻拒した。
「私は、基本的にメディアを信用していないんだ。有名な『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』でさえ、私に関してはいいかげんな記事を書いている。それに私は、昨日のことも考えたくない性分なんだ。いつも今日か明日以降のことしか考えていない。野村ではいい経験をしたが、忘れようとしている過去を振り返っていまさら蒸し返した<ない」
私は、野村からの「退職金」を受け取る際に、メティアの取材に応じないという条件が含まれていたのかと聞いたが、彼は「そうではない。メディアに話すか詰さないかは私の判断だ。それにあれは手切れ金ではない」と明言した。
その後、数え切れないほとのやりとりを操り返した後、ペナー氏はようやく重い口を開いたのである。
三十二歳で野村に入社
サンフランシスコのダウンタウンにある高層ピルの五十一階。その西南端にあるオフィスに一歩足を踏み入れると、まだ雑然とはしているが、広々としたペナー氏の執務スペースがあった。私がこの景色が気に入ったと緊張をほぐすために切り出すと、「ここから見える景色は絶景だろう。野村に行く前にモルガン・スタンレーで働いたことがあるが、このビルにオフィスがあったんだよ」
ペナー氏は、ガラス張りになった個室の中で西側に見える金門橋の方を指さしながら、快淡と語った。
イーサン・ペナー氏は一九六一年、ユダヤ教のラピ(牧師)の息予として生まれた。私立ニューヨーク大学卒業後、カリフォルニア州のS&L(貯蓄貸付組合)に就職した。そのS&Lに一年間勤め、さらに別のS&Lに転職、そこも二年足らずで去っている。
その後、八六年にドレクセル・バーナム・ランパート証券にトレーダーとして入社した。ドレクセル社は、八○年代にジャンクポンド市場を作り、一世を風靡したマイケル・ミルケン(後に証券詐欺、脱税などで有罪になる。ドレクセル社も倒産した)で有名になった証券会社である。
「私がドレクセルに入ったときは、ミルケンはかなり上役だったので、直接は会えなかった。彼は非常に頭がいい。その知性には敬意を払っているよ」
ペナー氏は懐かしそうに話し始めた。メディアの報道だけでペナー氏という人物を推し量ると、好戦的で、傲岸不遜なイメージを浮かぺてしまうが、実際にこうして目の前で話してみると、必ずしもそうではない。
「私は正直で、現実的な男だ。世の中にはものごとを肯定的に見る人と否定的に見る人がいるが、私は肯定的に見る方だ。常に私は現実的だ。それに社会のいろいろな欠点をよく承知している」
ペナー氏は、ドレクセル社で一年半ほと働いた後、モルガン・スタンレー証券に移る。モルガン・スタンレーには約五年間勤めたが、結局、彼が提案した不動産の証券化ビジネスを同社が認めなかったために退社した、と言う。
「(モルガン・スタンレーでは)不動産ファイナンスのピジネスを少しはやらせてくれたけれど、結局、彼らは手を出したくなかったんだ。必死に説得したが、だめだった」
ペナー氏は当時を振り返ってこう続ける。
「彼らが私のアイディアを理解していたかとうかはわからない。それに当時私が描いていたようなビジョンを彼らが描いていたとは思えない。一九九一年といえぱ、不動産で巨額の損失が出ていたときだから、二の足を踏んだのも当然かも知れない。モルガン・スタンレーを辞めた頃というのは、不動産は結構怖いビジネスだったからな。トンネルの向こうの光が彼らには見えなかったんだ。私には見えたのに。人からは先見の明があるとよく言われるよ」
モルガン・スタンレーを退社したペナー氏は独立して自ら会社を興した。
「マジェラン・ファイナンシャルという会社を自分で設立し、不動産ファイナンスを手がけた。社員もほんの数人で、モルガン・スタンレーで私の右腕だった男と、あとは自分が直接会って雇った。力ーギル、あの穀物メジャーが我々のファイナンシャル・パートナーになったんだ。カーギルはアメリカで最大の民間企業だが、金融部門も持っていた。
自分でピジネスを始めて最初の一年問は非常にうまく行ったよ。その一年のうちに、野村を紹介されたんだ。野村には大きな資産があるかちマジェランのいいパートナーになってくれるということでね」
最初にペナー氏に接触したのは、パンク・オブ・アメリカの重役だったクラウス・ランド氏だった。彼が、米国野村の西海岸支社の責任者であるダン・スティール氏をペナー氏に紹介した。そしてスティール氏がニューヨークのマイケル・パーマン氏を紹介した。パーマン氏とは、当時は米国野村の債券業務の責任者であり、後に米国野村のCEO(最高経営責任者)になる人物である。ペナー氏は着実に野村に近づいていった。
−初めから野村に入社するつもりだったのですか?
「もともと我々が会ったのは、野村にとってマジェランと提携することがメリットになるとみんなが考えたからだ。けれども実際に会ってみると、マイケルは、マジェランを閉じて私に野村でビジネスをやらせた方がいいと考えるようになったんだ。それから何力月も話し合った末に私たちは合意に達した。その内容はとても魅カ的で、やりがいのあるものだったね」
モルガン・スタンレーを辞めて興した自分の会社が順調に行っていたにもかかわらず、ペナー氏は再び大企業に雇われることになったわけである。
−最終的に野村に入社しようと決断したのはなぜですか?
「私は、それまでにもウォール街の大きな金融機関と仕事をしたことがある。自分は起業家精神に富んだ人問だし、それが成功の鍵だと思っている。もちろん大企業の中で、起業家精神を発揮するのが非常に難しいのもわかっていた。だからあまり乗り気にはなれなかった。しかし、起業家精神を十分生かせるビジネスを任せるからとマイケルが約束してくれたんだ。それを聞いて、リスクを引き受ける気になった」
そうしてペナー氏は、九三年二月七日、三十二歳のときに、前出・NHAの子会社である「ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル」(NSI)に入社する。
当時の米国野村のトップは氏家氏だった。氏家氏は東大を卒業後、イリノイ大学とシカゴ大学の大学院で経済学を学んだ後に、三十歳で野村證券に入社したという異色の経歴の持ち主である。入社後は、国際畑を歩み、八九年にNSIの社長、そして九二年からはCEOに就任していた。
一九九〇年代初頭まで、米国野村に限らず日系の証券会社は日本人顧客に依存した単なる出店に過ぎず、ニューヨーク市場で収益を上げることができずにいた。
氏家氏が米国に赴任する前後から米国野村は日本人の経営では限界があると考え、方針を大きく転換する。まず、八九年にキダー・ピーボディ証券社長だったマックス・チャップマン氏をNSIにCEOとして迎え、徹底的な権限委譲を行った。
ペナー氏がNSIに入社した当時はチャップマン氏と氏家氏がともにCEOを務めていた。その二人の下にパーマン氏がいた。ペナー氏は、入社前に氏家氏には会わなかったというが、チャップマン氏には採用される前に会った。
−最終的に誰があなたの採用を決めたのですか?
「私の採用を決めたのは、マイケルとマックスだ。氏家氏は(二人から)相談されたかもしれないが、実際に私が会ったのは野村に入ってからだ」
NSIに入社したペナー氏の肩書は、シニア・パイス・プレジデントだった。
−野材に入社してすぐにCMBSのビジネスを手掛けたのですか?
「実際にピジネス・プランを考案するまでに八週間ほどかかったね。よく野村に入ってからCMBSがひらめいたと言われるが、そうではない。マジェランにいたときにすでに思いついていた。証券化、つまり債権のプーリング(複数の債権のかたまりを形成する)というアイディアそのものは、他の分野でもすでに応用されていたし、別に新しい概念ではなかった。
しかしそれは、不動産ではなく、クレジット・カードや自動章、住宅抵当貸付のようにどれも個人向けの金融商品だったんだ。私の目からみれぱ、(商業用の)不動産ファィナンスというビジネスに応用しても極めてうまくいくことははっきりしていた。他の人になぜそれがわからないのか、私には理解できなかった。私には成算があったんだよ」
ペナー氏はNSIに入るや、不動産ファイナンス部門の責任者として業務のほぼすべてを任された。入社後、約ニカ月でやはりNHAの子会社である「ノムラ・アセット・キャピタル・コーポレーション」(NACC)の社長に就任する。NHAは持ち株会社であり、NSIは証券業務、NACCはファイナンス業務を行う。実質的にペナー氏のビジネスは二社にまたがるものだった。
当時、アメリカの金融界には八O年代に相次いだS&Lの破綻劇の余震がまだあり、金融機関は不動産融資に消極的だった、その一方で、この頃はアメリカ経済が回復の兆しを見せ始めていた時期でもあった。
ペナー氏は市場の回復するのを見計らって、商業用不動産のデペロッパーに積極的に融資を行い、強力にクライアントを開拓していった。その結果、わずか数年で不動産ファイナンス部門で米国野村をアメリカのトップクラスにまで押し上げたのである。
同時に、米国野村ではほとんど手つかずだったCMBSビジネスに乗り出した。自ら融資したローン債権を証券化したCMBS商品を売りまくり、三年間でこの分野を米国野村のドル箱的存在に育て上げた。ペナー氏はそうしたCMBS商品に「メガディール」と名付ける。米国野村の成長はまさに驚異的なスビードで達成されたと言える。
五年間で部下は四百人に
−九三年に始めたCMBSビジネスはどのように拡大していったのですか?
「スタートした最初の一年は、十五人から二十人くらいの部下しかいなかったので、大変な量の仕事をこなしたよ。日本人はゼロだった。大変なハード・ワークだったね。何もかも自分でこなさなけれぱならないうえに、部下たち全員を指導したんだから。でも、最初の一年はその努カが実って大成功だった。
部下は急激に増えた。途方もない成長ぶりだったね。数えたことはなかったが、最終的には(部下は)四百人以上になった。収益で言えぱ、九三年には、経費と給与を払って約一億ドル。九四年が約一億六五〇〇万ドル。九五念が約三億ドル。九六年が約五億ドル。そこまではとんとん拍子に儲かった。九七年に約三億五〇〇〇万ドルと減益になっているが、九六年はある特殊な取引があって収益があがっているので、それを差し引いて考えれぱ、九七年は案質的には九六年と変わらないよ」
CMBSビジネスの成功は、ペナー氏個人にも莫大な報酬をもたらした。九七年度のペナー氏の年俸は五十億円、米国野村に在籍した五年間の収入総額は百五十億円とも言われる。
報酬について尋ねると、ペナー氏はその金額については名言を避けた。
「私の収入は、あくまでも私の部門が出した利益のパーセンテージで、儲けがゼロであれぱ、私の収入もゼロになる。だから、同業者と比べて、多いとか少ないの問題ではなく、もし私の収入が彼らよりも多けれぱ、それは単に私の部門の収益が多いことを反映しているだけだ」
ペナー氏はさらにこう続ける。
「私は、収入の全額の小切手を渡すから会社に投資させてくれと、毎年のように申し込んだが、いつも断られた。野村は自分たち以外の誰にも所有権を渡したくなかったんだ。だから、私はこう言ったんだ。『私はこの会社を信じている。収入の全部を投資してもいいのです。キャッシュはいりません。会社に貯えておきたいのです』。でも、向こうはうんとは言わなかったね」
−野村はあなたに会社を乗っ取られることを恐れたのではないですか?
「そんなつもりはなかったし、私個人で所有できるものでもない。一人では所有できないほどの大企業に成長する途上だったんだ」
ペナー氏の巨額の報酬とともに、年に一度、顧客を集めてペナー氏が開くパーティも大きな話題を呼んだ。スティーピー・ワンダーやエルトン・ジョン、ダイアナ・ロスなどの有名なミュージシャンに高額のギャラを支払った。四年前にはアリゾナ州のフェニックス郊外の飛行場の格納庫を借り切って、イーグルスを呼んだこともある。その費用はもちろん米国野村が支払っていた。
「こうしたパーティで顧客をもてなして作ったすぱらしい思い出が、我々の営業カをつけるのに役立ったんだ。一回のパーティで三、四百万ドル使うが、(年問で)五億ドルの収益がある会社にしては少額だし、宣伝費としてもごく安いものだ。
パーティに費やす費用は他の大企業と変わらないと思う。アメリカン・エキスプレスやモルガン・スタンレーと同じだよ。彼らと違って我々は新聞広告には費用をかけなかった。パーティが宣伝費だったんだ。我々が使った宣伝費と言えぱ、本当にエンターテインメントだけなんだよ。私のマーケティングの方針は、自分を差別化して他人のまねをしないということだ。だからマーケティングのやり方という観点からみれぱ、ごく真っ当なことだろう。
マーケティンダの責任者は私だったが、帽広い客層に歓迎されそうなエンターテイナーを選んだ。客の年齢層は三十歳から七十五歳にわたるからね。毎年冬に開くが、昨年は秋だった。年々規模が大きくなり、最初の年は五百人を招待したが、昨年は二千人も招いたよ。
私が決裁権を持ってはいたが、仮に一回のパーティで一億ドル使ったとしたら、必ず何か言われただろう。大金を稼いでいたのだから、その限りでは妥当な金額だと思うよ。ピジネスとしては十分に意味が通っている。会合は、昼間にビジネスの会議があり、夜がディナーとバーティになる。例年二日間にわたって行われた。
日本では、こうしたパーティはやらないが、アメリカでは日常茶飯事だよ。それがメディアによって大げさに書き立てられたのは、私が若いせいだと思う。世間は若い人間を差別するんだ」
そうしたペナー氏の派手な振る舞いや私生活はマスコミの恰好の標的となった。アメリカのメディアは挙って時代の寵児となったペナー氏を取り上げた。
−自分を論評するメティアについてはどのように感じていましたか?
「私のことをあれこれ言う人間には二つのタイプがあるね。私を知っている人問とそうでない人問だ。私を知っている人問は、私が感じがよくて、正直で、面倒見がよく、気前がよく、控えめな人柄であることをよくわかってくれている。また、新聞や雑誌を売りまくろうとしている連中もいる。つまらない記事を書いてね。彼らが書くのは、どちらかと言えぱ、派手で、攻撃的で、リスクを恐れないという、メディアが若者にあてはめるステレオタイプそのものだ。これは私の考えだが、もし若い人間が大金を手に入れたら、メティアはその人間がこんなことをやったのではないかと憶測する。要するに、犯罪に手を染めたのか、もしくはとてつもないリスクを引き受けてまぐれ当たりしたんじゃないか、とね。
その人間が成功に値する有能なビジネスマンだとは信じたくないんだ。記事が台無しになるからね。幸運に恵まれたとか、それとも犯罪を犯したとか、そのどちらかに仕立て上げる方が簡単だからね。私が犯罪者であると言う者は誰一人いないから、メディアはとてつもないリスクと幸運という筋書きにするんだ」
「氏家氏は理解していなかった」
いずれにせよ、ペナー氏の上げた業績によって、野村は瞬く間にウォール街で唯一成功した外資系証券会社という評価をかち得ていく。
だが、絶頂期は長くは続かなかった。
野村が独占的地位を占めてきたCMBS市場も次第に競争が激化し、参加企業が三十社ほとになったのだ。
−他社が野村に追随してCMBSビジネスに参入してきた。そのとき、シェアを食われるという不安はなかったですか?
「一、二年のうちにみんなまねをしてきた。他社が参入したときには、競争相手が増えたからには我々の成功もいつまでも続くまいとみんなが思った。だが実際には、毎年好成績が続いた。いまだによく理解されていないようだが、我々の強みは、決してアイティアだけではなかったんだ。我々の会社の強みは、会社それ自体にあった。
つまり、杜員の努カの賜物なんだ。それが我々の会社のユニークな特色であって、決してアイディアではない。優秀な社員は多くいて、アイディアならいくらでも思いついた。でもCMBSをはじめ、我々が成功したのは会社にいる人問のマン・パワーなんだ。すぱらしい会社だった。アイディアそのものは目新しくはない。それを最初に積極果敢に応用したのが我々だったんだ。パイオニアとしての懸命な働きぶりのおかげだよ。
不動産ビジネス全体から見れぱ、我々の会社としてのマーケット・シェアはたぷん一五パーセントから二〇パーセントくらいだったと思う。かなり大きかったね。このピジネス分野では史上最大の企業にまで成長したんだ」
−氏家氏とは直接あなたのビジネスについて話していたのですか?
「氏家氏とは二週間に一度のぺースで会っていた。とてもていねいで擾秀な人だ。つきあいやすそうな人だったよ。でも話す内容はビジネスについてだけだ」
−氏家氏ばあなたのピジネスを十分に理解していたと思いますか?
「想像だが、氏家氏がCMBSのビジネスをきちんと理解していたとは思わない。部分的にしか理解していなかったのではないか。全体はのみ込めていなかっただろう。
我々の会社は偉大な会社だった。我々は、ただの偉大なアイディアではなく、偉大な会社を築き上げたんだ。そしてこの会社は、誰もが想像しなかったほど強大になった。氏家氏が本当に理解できなかったこと、そしてほとんどの人が理解できなかったことは、この会社がどれほど偉大だったかだ。彼はアイディアやテクノロジーは理解していたと思うが、会社の質を評価できなかったのではないだろうか」
一方、氏家氏とともにCEOだったチャップマン氏についてペナー氏はこう評した。
「彼は複雑な人聞だ。一言では言えないほどね。証券会社のトップとしてはきわめて有能で、とても優秀だ。彼はときにはてこずるほど気むずかしい場合もあったが、非常に協カ的だったこともある。でも誰だってそうだろう。上司がいれば、どこだって同じだよ。ともかくチャップマン氏は、きわめて頑固なポスだったね。それがいい場合もあれぱ、悪い場合もあるよ」
ペナー氏のピジネスの規模は年々大きくなっていた。しかし、競争が激化したことにより、米国野村はより高いリスクを覚悟せざるを得なくなった。
九七年には、CMBSの売れ行きにも陰りが出始めていた。格付けの低い証券が売れなくなったのだ。その頃から、東京の野村證券上層部の中から「ペナーのピジネスは危険だ」「米国野村はリスク管理ができていないのではないか」という声が出始めた。
ウォール・ストリート・ジャーナルや有力な経済誌がペナー氏の商売の先行きに疑念をはさむ記事を掲載し始めたのもこの頃である。前後して、ペナー氏と野村上層部の間にも対立が始まる。
−CMBSビジネスのリスクを懸念する声が社内から出始めたときは、どう思いましたか?
「ビジネスにはリスクがつきものだし、リスクを懸念する人聞はどこにでもいる。野村という会社を理解してほしいね。アメリカではなく、日本での野村という会社の歴史だ。歴史から言えぱ、野村はリスクを引き受ける会社ではなく、リスクがない取引の依託手数料で稼いできた企業だ。何らかのリスクを引き受けるとか、資本を委ねるというアイディアに幹部が不安を抱くのは当然とも言えるね。そんな方法でお金を稼いできたわけではないのだから。
私のビジネスは管理が行き届いたロー・リスクのビジネスだったが、膨大な資本を委ねていた。だから資本を委ねるビジネスを理解しなかったり、その経験がなけれぱ、ハィ・リスクとロー・リスクをどう区劇していいかわからない。資本を委ねること自体がリスクになってしまう。
氏家氏がアメリカにいる間も当然そのリスクについて話した。金融ビジネスとはリスク・マネジメントのことなんだ。氏家氏とは、話す機会があるときにはそのことについてある程度話し合ったよ。(氏家氏がどの程度リスクについて懸念していたかは)知らないね。彼に聞いてほしいよ」
野村との破局の原因
九八年六月に米国野村は百パーセント出資の子会社「キャピタル・カンパニー・オブ・アメリカ」(CCA)を設立し、ペナー氏が社長に就任している。
しかし、その実態はNACCび機能がそのままCCAに移っただけで、看板をかけ変えたにすぎない。
−どのような経緯でCCAは設立されたのですか?
「CCAの設立の準備を始めたのは九七年の春だが、正式に発足したのは、その一年後の九八年だ。同じピジネスを別の名前の会社でやることにしただけだ。所有者はそのまま野村だったが、CCAは独自性を持っていた。(CCAの設立は野村の意向ではなく)あくまでも私の意志だった。
私がCCAを設立しようとしたのには、理由が二つある。一つは、成功した会社が従業員を株主にすることが重要であると私が信じていることだ。CCAの組織ではそれが可能だった。もう一つは、私がCCAをクローパルな金融会社にしたいというピジョンを持っていたことだ。野村の一部門である限りそれは達成できないことだからね」
ペナー氏はそれまでの本拠だったニューヨークからCCAをサンフヲンシスコに移す。
「(サンフランシスコに移転したのも)私のアイディアだ。野村にあった唯一のアイディアは、このビジネスをやめることだった」
ペナー氏は、CCAの設立は自分の意志だったと主張する一方で、野村はCMBSビジネスからの撤退を考えていたと示唆する。「CCAの設立の準傭」が始まったという九七年の春は、野村證券が総会屋への利益供与事件で大きく揺らいでいた時期である。そして、九五年に日本に帰国していた氏家氏が「総会屋なととは縁がない国際派」として常務から大抜擢され社長に就任した。日本では、米国野村を急成長さをた氏家氏の功績が高<評価されていたが、その裏で、氏家氏は密かにCMBSピジネスからの撤退も視野に入れていたのではないか。
おそらく、そうした野村の思惑とペナー氏の思惑の妥協の産物がCCAの設立話だったのだろう。つまり、ペナー氏がCCAの将来像をどのように思い描いていたとしても、もはやペナー氏が自由にビジネスを進めることは許されていなかったのだ。
CCAの設立話はペナー氏と野村との関係がぎ<しゃくしていくなかで始まったものだ。その過程で両者の決定的な破局の原因となったのが、モーゲージ・ヘッジファンドとも呼ぱれる不動産投資信託会社の「クリーミー・メイ」の経営悪化問題だった。クリーミー・メイはペナー氏が作り出す低格付け証券を購入する最大の顧客だった。
「クリーミー・メイが九八年の春に破綻しかかったのをみて、私は状況が変化しているのを察知した。.事業計画を再編しなけれぱならないと考えるようになったんだ。
それまでの過去三年問、クリーミー・メイは(リスクの高い低格付けの)BとBダッシュの債券を一枚残らず買い取っていた。我々は彼らに全面的に依存していたのだ。一つの会社にかなり依存するという点では、この業界ではどこも同じだった。彼らとの取引は私が野村に入った一年半後に始まっている。向こうの取引相手は、我々だけではなくて、どことも取引していた。特に野村の証券だけを買っていたわけではなく、どこからでも買っていた。彼らが破綻したのは、自已資本が乏しかったのとレパレッジに頼りすぎて、資金源がきわめて短期的なものだったからだ」
−クリーミー・メイの経営悪化であなたはどのように事業計画を変えようとしたのですか?
「確かに我々は、不動産ファイナンスを資金の貸し手が支配的だったビジネスからティーラー主体のビジネスヘと変化させるきっかけを作った。我々はディーラーだった。我々が融資を行い、債権をパッケージ化し、証券の形にして売り出した。このビジネスで成功するには、証券の買い手がいなけれぱならない。
それが九八年春に、格付けのご<低い債券に対して、急速に買い手の体制が崩れていくのを経験したわけだ。だから、私は、我々のピジネスをディーラーを主体としたビジネスから金融会社のそれに変えざるを得ないと判断したんだ。それで野村の人問にそうするように提言した。氏家氏とはほとんど話せなかったので、主にアメリカ人の幹部のウイリアム・レイスやマーク・マクゴーリ(二人とも昨年十二月に野村を退社)らと話した。だが、彼らとその日本人の上司は、会社の路線を変えるのに頑に反対したんだ。九八年の四月から八月にかけてのことだよ。
私は自分が育て上げたビジネスを長期的に成功させるには難関にさしかかっており、ビジネスを変革して新しい資本を導入するべきだと判断した。私はかなり強硬に交渉したから、私の意見は十分に理解してもらえたはずだ。でも彼らはあくまでも反対した。今でも反対した理由がわからない.これは私の推測だが、こうした考え方を日本人に説明するのに苦労した経験があって、わぎわざ時間をかける気になれないと彼らが感じたのかもしれない。
要するにコミュニケーション・ギャップはかなり大きかった。それまでは、私にはかなりの載量が与えられていた。だから、あれほど自分の意見が通らなかったのはショックだった。結局、それが私の辞めどきになった。この会社に一〇億ドル投資したいと強く望んでいる投資家がいるのを私は知っていた。野村のパートナーになるか、あるいは相応の価格で野村から買い取りたいというんだ。私が報告した野村の人間は、それを日本の上司に伝えたが、彼らはそれに強硬に反対した。
それで結局私は野村を辞めたんだ。これからの先行きが明るくないことがわかったので、それを納得させようとしたが、彼らには理解する気がなかった。あるいは理解できなかったんだ」
つまり、CMBS市場が暴落する原因となったロシア危機が起きる以前に、ペナー氏はクリーミー・メイの経営悪化により、新たな資金を投入して事業の立て直しを試みようとしたが、頑に反対されたために米国野村を辞めたというのだ。
ペナー氏は悔しがる。
「残念ながら、パートナーの野村が、そう、野村について言うのなら、野村との交渉で一番厄介なのは誰を相手に語しているのかわからないことだ。とにかく私とのパートナーシップで野村の利益を代表している側の人間は、信じられないほと、我々の努カや将来の期待に対して無関心だった。そして、そうやって注ぎ込んだ努力も、注ぎ込んだ血も汗も涙も、それがとれだけ大変だったか一切頑みられずに、お払い箱にされてしまったんだ。まるで、くずにでもなったかのように一晩でゴミ箱に捨てられたんだ。
振り返れぱ、私は大金を稼いだのだからそれでよしとすぺきだとほとんどの人が言う。確かに私は大金を稼いだし、それを幸せに思っている。あの会社で大金を稼いだ人は大勢いるし、それで幸せになる権利は誰にでもある。野村だって大儲けしたんだ。誰にとっても大成功のビジネスだった。
だが、それが悲劇になった。ビジネスの世界にこんな悲劇があるなんて見たことも聞いたこともない。これほと経営価値のある会社をさしたる理由もないのに、こんなにあっきりと潰すなんてね。だから情けないんだ。私はまだまだ若いし、いろいろなものに恵まれているし、将釆に対しても楽観的だ。それでもあの会社をゼロからもう一度興すのは容易ではない。たいへんな苦労がいる。私が残念に思うのはそれだね。
つまるところは、評価を欠いているという事実に尽きると思う。だいたい、野村は我々が上げたほどの業績を実際にはまったく期待していなかったのではないか。我々の成功は驚き以外の何物でもなかった。だからそれを理解もできなければ、評価もできなかったんだ」
「ダイヤモンドを捨てた」
−あなたにとっても予想以上の成功だったというのですか?
「予想できる限りでは最高の、と言った方がいいだろう。私自身の予想を超えたとは言わないが、私の期待には寸分たがわなかった。
でもこのプランは彼らが考えたものではないから、彼らにすれぱただの偶然でしかない。彼らは出資者で、ある日ふと気づいてみると、アメリカで最大の不動産の債権者になっていた.それで落ち着かない気持ちになる人問が当然、日本にはいるだろう。私にもそれは理解できる。仮に私がアメリカで会社を所有しており、日本にある会社に投資していたとして、それがある日突然、その分野で日本最大の企業になっていたら、私だって不安になるだろうと思う。アメリカでのビジネスと違って、日本のビジネスを理解していないのだから」
−氏家氏以外の日本人で、接触のあった野村上層部の人問はいたのですか?
「定期的に接触はあったよ、氏家氏以外の幹部が東京から来たときは、必ず話し合いを持った。それにニューヨークにいる日本人で、私と気が合って、定期的に話し合っていた者も二人いる。しかし、ビジネスの話を毎日するような日本人はいなかったね。所詮我々の仕事はアメリカのビジネスだから。
いずれにしろ、私が誤解されたことは確かだ。接触がほとんどなかったんだ。野村側の人問が私や私のビジネスの質を理解していれぱ、結果はまったく違ったかも知れない。彼らはダイヤモンドを持っていたのに、そのダイヤモンドを取り上げて、ゴミ箱に捨てたんだ」
−あなたは結局解雇されたのか、それとも自分から辞めたのか、どちらですか?
「いい質問だね。簡単には答えられないが、確かに口をきくのもいやな相手がいて、彼が私を政略的に攻撃した。そいつはアメリカ人だよ。それで解雇されたかって?そうでもない。では、辞めざるを得ない状況に追い込まれたのか?
私にはそれがペストの選択だった。(野村に)残ろうと思えぱ残れたが、いろいろあって、私から見れぱ見込みのない九八年の事業計画、つまり今までと同じやり方を維持するということが会社側の意向だとわかってしまうと、私には辞めるしか選択の余地がなかった。それが唯一の正しい答えだった。リーダーなのに何も指揮ができなくなったとしたら、そこに留まって何になるんだ?私はリーダーであるにもかかわらず、すでにリーダーシップを発揮できなくなっていた。そうなったら仕事の意味がないだろう。
今回のことで残念なのは、日本人とは一度も本当の議論をしていないことだ。だから、野村の人間が私が辞めた真相を知っているのかどうかもわからない。私の交渉相手はアメリカ人ばかりなので、彼らが日本人にどのように報告しているのか知る術もない。残念なことだが、正しく伝わっているとは思えないんだ。別に氏家氏から辞めるように言われたわけではないし、その気があれぱ残れたと思っている。私が向こうのやり方に従うなら、今からでも多分雇ってくれるはずだ。
私の構想は(入社以来)五年問は実現が認められた。リーダーの地位を与えてくれて、責任を委ねてくれた。それが突然、会社をリードするのに私の意見が無価値になってしまったんだ」
−そうした状況になったのは、具体的にはいつ頃のことですか?
「昨年の五月か六月に近かったんじゃないかな。その頃にはもう、会社の方向付けに関して私の意見は重んじられなくなっていた。報告する相手の態度でわかったよ。もうそんな立場に酎えられなくなっていた」
「私は損失を出していない」
これまでの報道によれぱ、ペナー氏は昨年九月十六日に米国野村を退社したことになっている。それは、CMBSビジネスによる巨額損失の責任を取って野村を辞めた、もしくは野村から解雇されたというものだった。
しかし、ペナー氏が野村を退社したのは、巨額損失が出る以前だったのだと、ペナー氏は主張する。
「私が野村を退社することに同意したのは、昨年の八月十二日のことだ。しかし九月に『リアル・エステイト・コンファレンス』という大きな催しがあり、その場に私がどうしても出席している必要があったんだ。そこで(CCAの社長を辞めて)副会長として留まることに同意した。私を社の一員であるかのように見せかける儀礼的な地位としてね。その会議には政治家やビジネス界のリーダーたちが二千人ほと参加した」
ペナー氏はカ説する。
「私たちを含め、九八年十月までは誰一人損失を出していないんだ。私が野村を辞めたのは九八年八月だ。だから、私が野村を辞めたその日までは、いっさい損失は出していない。
しかし、ロシア政府が債務不履行に陥って、債券を保有している者はみんな損を出してしまった。債券の種類を問わずね。CMBSも債券の一種だから、そういう債券を持っているディーラーは全員損を出した。私は、野村が八億ドルの評価損を計上したと聞いているが、その後六億から七億ドルを戻していると聞いている。その日の終わりに彼らはパニックをきたして、全部を損失と計上してしまったが、いまではほとんど全部取り戻している。だから壮大なゼロなんだ。とにかく私はロシア経済危機が起きる前に辞めていた」
野村證券は昨年九月末時点でのアメリカのCMBSビジネスでの損失(評価損)を六億ドルであると発表している。それとは別に、ロシア国債の損失が英国で約三億五〇〇〇万ドル、米国で約二億五○○○万ドル出ている。
ペナー氏は言った。
一億ドルか二億ドルだ。六億ドルではない。みんな好きなように(数字を)でっち上げているんだ。なんらかの損失が出ているとすれば、それは彼らのせいだ。損失を出す理由などなかったんだから。CCAや野村には不良債権なとなかったし、投資の失敗も一切ない。損失が出るような理由があるとすれぱ、それは野村が資産をダンピングしようとしたからだ。売り手がパニックに陥ったら、金を失う。きちんとした方法で会社を売却していたら、損失ではなく儲けが出ていただろう。損失を出すような理由はなかったんだよ」
ペナー氏にインタビューした後の一月十八日、野村證券は九八年十二月期決算を発表した。その際、CMBSビジネスに関する損失は九月末時点と比べて数十億円程度増えた、としている。
その点をペナー氏に確認した。
−その後、六億ドルから七億ドルを取り戻しているというのは本当ですか?
「今でも確信するが、野村のCMBS部門は信用貸しに関して損失はゼロだ。報告されている損失があるとすれぱ、承認されていない評価損だ。同じような損失は他の企業にもあった。しかし市場環境がよくなるにつれ、かなり戻している。野村の人問から聞いた話では、野村も他の市場参加者と同じように振舞ったということだ。私が推測するに、その一時的な市場の下落を利用して、氏家氏の評判を傷つけようとした者が野村の中にいるということだ」
氏家氏が追及される経営責任
三〇〇〇万ドルと言われる「退職金」について尋ねると、ペナー氏はこう答えた。
「ほとんどすべてのメディアが勘違いしているが、あれは退職金でもなけれぱ、手切れ金でもない。我々は(CCAという)新しい会社を作る過程にあったんだ。計画では私をはじめとする経営陣が会社の一部を所有することになっていた。だから、交渉にあたっては、私は会社の持分に関して権利を持っていたから、八月に辞めるときに私の権利を買い取ってはどうかと持ちかけた。向こうはそれを了承したんだ。それがあなたが言うお金のことだ。退職金ではない。単に私が持っていた権利をお金に換算しただけのことだ」
ペナー氏の退社と前後してロシア危機が起こり、ペナー氏が手掛けたCMBSは暴落し、野村證券が巨額の評価損を計上したことは問違いない。現在、CMBS市場はロシア危機当時に比べれば回復はしているものの、ロシア危機以前の水準には程遠い。ベナー氏の最大の顧客であり、ペナー氏が野村と袂を分かつきっかけとなったクリーミー・メイは結局、昨年十月にチャプター11(日本の会社更生法に相当する)を申請した。
米国野村はCMBSビジネスについては、新規のローンは行わないことを決定した。全米各地にあるCCAの支店を閉鎖するなどのリストラも進めている。
いま、野村證券の社内やOBの間では氏家社長の経営責任を追及する声があがっている。
九月の中間決算では海外拠点で二干四百億円を超す損失を計上したが、十二月末ではさらに損失は二百十四億円膨らみ、二千六百四十八億円の経常赤字となった。
足元の日本国内でもかつてのガリパーの面影はない。九月の中問決算では野村證券単体で約二百十九億円の経常黒字を計上していたのが、十-十二月期では七十六億円の経常赤字を計上した。しかも、営業収益で大和證券の後塵を拝するという、かつての罫村証券では考えられない失態を漬じている。、
九八年度決算に残されたあと三カ月(一‐二月期)に劇的に数字を改善する材料はいまのところない。仮にアメリカでのCMBSビジネスを始め、損失がさらに拡大した場合、氏家氏はトップとしての経営責任を取らざるを得ないだろう。
私はペナー氏に氏家氏の責任について問うた。
−氏家氏がCMBSビジネスの失敗の責任を追及されて社長を辞めざるを得なくなったら、あなたは責任を感じますか?
「とんでもない。CMBSは野村で空前の金を稼ぎ出したんだ。それが理由で誰かが辞めるなんて理解できない。氏家氏は頭のいい人聞だから誤解されていることをきちんと説明するべきだ。彼がCMBSで責められる筋合いはないし、そもそも誰も責められる筋合いはないんだ。利益になる会社を捨ててしまった点は責められるぺきかもしれないがね」
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