イーユン・リー/Yiyun Li
いま最も注目される
『千年の祈り』の女流作家

(週刊新潮 2007年10月4日号)

まるで長編を読み終えたようだ−−−。『千年の祈り』(新潮クレスト・ブックス)に収められた短編はどれも、そんな豊潤な読後感をもたらす。著者は、いま最も注目される女流作家イーユン・リー(35)。北京生まれの彼女は、母語でない英語を用いて、なぜこうもシンプルでエレガントな文章を書けるのか。ジャーナリストの大野和基氏がインタビューした。


フランク・オコナー国際短編賞と言えば、第2回で村上春樹が受賞したことで、日本でも話題になった最も権威のある賞の一つだが、その第1回の受賞者がイーユン・リーという中国人作家であることは案外知られていない。しかも、彼女の作品は中国語からの翻訳ではなく、彼女にとって第二言語である英語で書いて賞を勝ち取ったのである。リー氏は他にもPEN/ヘミングウェイ賞、ガーデディン新人賞、ニューヨーク・タイムズ・プックレビュー・エディターズ・チョイス賞など、数々の賞を独占し、現在最も注目されている、才気換発な作家である。

新潮社から出版された『千年の祈り』は、10作を収録した短編集だが、登場人物の多彩さ、話の展開からみると、外国をほとんど知らないアメリカ人作家の想像力ではとても到達できそうにないレベルの作品だ。とりわけ、2つの賞を受賞した、彼女の処女作「千年の祈り」は、題名の響きからしてその作品の幅と深さを一瞬にして想像させるが、結婚した娘を心配してアメリカにやってくる父が、イラン人のマダムと、異なる言語を話しても通じ合うところは、胸が打たれる。
<たがいが会って話すには−長い年月の深い祈りが必ずあったんです・・・>
<愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈って三千年かかる。父と娘なら、おそらく千年でしょう>

リー氏は、「修百世可同舟」という中国の箴言を使い、英語を話すときは人間が変わったように見える娘に、母語の中国語で話をするが、心を通わせることができない現実に直面する。父親の寂寥感がみごとに書かれているが、私が思わず首肯したところは結婚適齢期にいる女の話の部分だ。
<日ごとにみずみずしさと魅力をうしなって、衷しくもあっというまに値打ちが下がり、安売り価格で片づけられるはめになる>
と淡々と書いている。短編であるにもかかわらず、長編を読む終えた感覚に陥ってしまうのは、作品がいかに豊潤であるかを物語っているからに他ならない。
この短編は、映画化が決定し、すでにワシントン州スポキャンで撮影が始まっている。

この作品以上に、読後『長編を読了した」という印象をさらに強く受けるのは、『不滅』だ。20世紀の中国をこの短さでビビッドに語ることができるリー氏の才能は、天才と言っても過言ではない。
翻訳では文体を論じることは不可能であるが、元の英語の文体を吟味すると、実にシンプルでかつエレガントな文体である。
「その文体は、今でも毎日のように読むウィイリアム・トレパー(アイルランドの小説家。短編の名手と言われている)の作品から学ぴました」

英語との“距離”を利用して

イーユン・リーは、1972年北京で生まれた。中学のとさから学校で英語を習ったというが、文法しか習っていない。物理学者であった父親の影響で、自分でも科学者になるのが当然だと思っていた。
「父は、科学は正しいか間違っているか明白だが、芸術や文学はあいまいで、しかも政治がからんでくるので、認めていませんでした」
現在カリフォルニア州オークランドにあるミルズ大学という女子大で創作を教えているリー氏はオフィスでそう語る。
警戒心か人一倍強かった父親と教師の母親に厳格に育てられたリー氏は、天安門事件の影響だろうが、家の外で口にしてはいけないこととしていいことを厳しく教えられた。北京大学では一時期、政治的再教育のために軍にも入隊させられる。
96年に渡米したときは、英語がまともに話せず、聞き取れないレペルであった。
免疫学の勉強をしていたが、「ある日このまま一生免疫の勉強をしている自分の姿を想像できないと思った」と哄笑しながら当時の自分を回顧する。
「私はずっと長い間、大人になってからの人生の半分を無駄にしたと思っていました。でも、科学を勉強しているときに身についた自分に対する厳しさと集中カが、今の作家としての人生に必要であったことに気づきました」

同じく、クレスト・ブックスから出された『シェル・コレクター』の著者であるアンソニー・ドーアの文体は実に詩的である。
「短編の文体は長編と違ってて、凝縮されて、しかもエレガントでなければならない、一つの文も無駄であってはならない」とドーアは私に語ったことがあるが、まさにリー氏の文には無駄がなく、一文一文がまるで箴言のような響きかあるのだ。その作品のほとんどが、超長編であるトマス・ピンチョンも、短編を書くことの難しさについて、ため息をつきながら。私に語ったことがある。

リー氏は、英語がわかる前は、中国語に翻訳されたロシア文学を耽読し、北京大学では理系に進んだものの、ヘミングクウェイ、ハーディ、D・H・ロレンスなどを不十分な理解カで、英語で読んでいた。
その彼女に、作家になる道を切り開いたのが、作家志望の有能な学生が全米から集まるアイオワ大学の創作コースだった。
そのときの教授の一人が、ジェームズ・アラン・マクファーソンであった。彼は、78年黒人で初のピューリッツアー賞をフィクション部門で受賞した人だ。マクファーソンがいなけれぱ、リーは作家になっていなかったかもしれないという。
『彼はアイオワ大学の後、スタンフォード大学に移りましたが、私に手紙を書いて『あなたは作家になるぺきだ』と言い続けたのです。
それで私は彼の言葉を信じ、他のものを一切捨てて作家になる決心をしました」
マクファーソンはすでに彼女に作家としての才能を見出していたのだ。リー氏は母語で小説を書くマイナス面をこう説明する。
『アメリカ人は英語が母語だから、華麗で派手な文章を書きます。でも中身がありません。私は英語が第二言語なので、母語ほどintimacy(親密)がありません。常に距離があります。その距離を逆に利用するから、シンプルでエレガントな文章が書けるのです」

生まれたときから、英語で育つと、当然のことながら、母語としての親しみが自然に身につくが、リー氏にはそれがないという。
「母語で誰もが経験する若い時期の段階を私はパイパスしています。例えぱ花や木の名前を英語で覚えても、まったくイメージがわきません。それは大人になってから英語をマスターしたことのマイナスです」
そのマイナスをプラスに変えたのが文体と話の展開である。さらに、長く深い歴史のある中国で生まれ育ったパックグラウンドが彼女の想像力をさらに掻き立てるようだ。後にアメリカに帰化したが、ロシア生まれの作家ウラジミール・ナポコフも第二言語である英語で小説を書いている。
「ナポコフはあまりにも雲の上の存在です。足元にも及びません。でも英語で自由に書くことに意義があるのです。中国語からの英訳と、最初から英語で書くのは格段の差があります」
イーユン・リーの想像力はとどまるところを知らない。


 
 
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