 |
|

第17回 報道の自由
最近、2つのケースに慄然とした。一つは、メディア界を震撼させた、週刊文春の「田中真紀子長女の記事」の差し止め裁判だ。もう一つはテレビ報道に関する判決であるが、それは次回のコラムで書く。週刊文春の記事について、直感的に言うと、どうしてあの内容で、差し止め裁判を起こしたのか、今だに理解不能である。ニューヨークに住んでいるときに、週刊文春でやった記事で2回ほど差し止め裁判を起こされたことがあるが、内容は今回の記事よりももっと私的なものだ。しかも一つは公人の息子の話である。どちらも却下されたが、(残念ながら署名記事でないので、ここで紹介することはできない)それと今回の内容を比べると、どうして今回仮処分でも差し止めになったのか、理解できない。
田中真紀子の娘は私人か?
メディアにいない、一般の人は「政治家の子供は私人である」と思う人がいるだろうが、この一般論を、田中家の長女には当てはめるのはおかしい。絶大な権力を持っていた田中角栄の孫であり、田中真紀子の娘であるだけで、私人になり得ない。今まで生きてきた中で、彼女がそういうふうに扱われてきた、つまり田中家のお嬢さんとして、思う存分、想像を絶するほど一般人が味わえない恩恵を受けてきたからだ。そのことは4月1日号の「週刊文春」で元田中真紀子秘書が書いている。文春が彼女の結婚をスクープしたときは何も言わないで、そうでないときに突然差し止め裁判を起こすのはおかしすぎる。 差し止めが、民主主義国家で絶対に起こってはならない「検閲」であることを否定する人はいないだろう。田中真紀子の長女が、今回の記事を「悪意のある記事」と思うのなら、それは被害妄想だ。他人の記事としてみた場合「へえ、そんなことがあったんだ」で終わりの記事である。その「事件」の陰に田中真紀子が見え隠れするから、なおさら関心のある記事である。近所に住んでいる人の話ではないのだ。長女は田中家に生まれたときから、私人ではあり得ない。それは宿命である。親は選べないのだから。公人であると断言するのがはばかられるのなら、公人と私人のグレーゾーンにいると言っておこう。
すべての記事は同等にある
もう一つ。それはこの記事内容をくだらないというコメンテーターもいたが、それは見方が違う。なぜかというと、このコラムでも最初に書いたが、すべての記事は同等にあるということだ。政治記事であろうと、経済記事であろうと、ゴシップ記事であろうと、ぼくからみるとすべてニュース価値、活字にする価値という点からみれば等距離なのである。どれがまともな記事で、どれがまともでないというのはない。編集者の立場でも同じだろう。というのも社内の異動で、男性週刊誌の政治班から女性週刊誌の芸能班に移れば、急にくだらない記事を扱うことにならないからである。あくまでもニュース価値の点からみて、スクープになるかどうかが決定されるのだ。ぼくが取材するネタも同じである。毎週毎週やる記事の中には世間を騒がせる記事もある。そうでない記事(読んでおしまい)もある。どちらにしてもぼくから見ると内容に優劣はない。どちらも活字にする価値があるという点で同じである。感情を入れないで取材し、活字にする。それができないとジャーナリストになる資格はない。いちいち感情を入れていれば、神経が持たない。常に客観的にニュース価値を判断する余裕がなければならないのだ。内容がくだらないから手を抜いて取材することもない。取材姿勢は常に真剣である。
週刊誌の役割
プライバシーの権利と表現の自由、報道の自由のバランスで考えると、表現の自由が強い方が、国がまともに動くことは知っておく必要がある。権力のある人が暴走しない方が国がまともに運営されるのである。今回のケースも知人のアメリカ人ジャーナリストに聞くと、やはり理解不能であるという。アメリカでも政治家の名家に生まれた時点で私人ではあり得ない。ずっとメディアに追いかけられる。何を書かれても、名誉毀損裁判を起こすことはあっても、差し止め裁判を起こすことは考えられないという。ぼくが今回の週刊文春の記事で差し止めの仮処分が出たことを耳にしたときは、拒否反応のあまり、吐き気を催したほどである。裁判官はメディアに教訓を与えようとでも思ったのだろうか。よくメディアの暴走というが、欧米からみると日本のメディアはまだまだ書けないことが多い。暴走どころか、標準にも達していない。特に大メディア、テレビは腰抜けの報道が多い。週刊誌がなければこの国のメディアは、成り立たない。それが差し止め仮処分となると歴史的事件である。
|
|
|
|
|
 |