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第18回 インターネットの威力
前回のコラムで、メディア界を震撼させたテレビ報道に関する判決について触れたが、まだ取材中で、しかも取材すればするほど、奥が深く、ここに書くのは時期尚早なので、取材が終わるまで待っていただこう。
取材活動におけるインターネットの効用
今回は、今では当たり前になったインターネットについて書きたい。どれほどぼくの取材に影響を与えているか、それは一言で言えないほど影響を与えているのだ。まず取材の申し込み方法も変わった。電話を入れる前に、まずメールで自己紹介をしておくだけで随分違う。たとえ、メールだけで取材承諾が取れていない場合でも、本人や秘書ときちんとした英語で話すとまず承諾が取れる。そのときはもう自己紹介は必要ないので、とんとん拍子に話が進むのである。秘書が本人に取材を受けるかどうか訊く前に、取材の承諾をすることもあるからおもしろい。元CIA長官や、ネオコンの論客ロバート・ケーガンの取材のときもそうだった。メールだけでは、取材が殺到しているので、そこからぼくを選んでもらうには電話で実際に話すしかない。実際に話すとほとんどの場合、承諾してもらえる。ケーガン氏もなぜぼくの取材に一回で応じたかは知らないが、他のメディアからの取材はほとんど断っていると後から聞いた。
電子メールは、最初の壁を少し崩す役割をしているかもしれない。そのメールでは、今まで直接インタビューした大物人物、自分の簡単な略歴も書くが、決してビジネス・レターのように形式的ものではなく、英語の文体もエッセー風にすることが多い。一つの読み物のようになるくらい凝ることもある。それは取材競争が激しい中で、注目を置かれるための一つの作戦でもあるのだ。次に実際に電話で話して、残りの壁を一気に崩すというふうにやるのである。
ぼくが最初に電子メールを始めたのは、確か1988年くらいだったと思う。電子メールは今でこそ持っていないほうが異常だと思われるほど当たり前のことになったが、電話と同じように、相手も持っていないと話にならない。当時の問題はまさにそれであった。電子メールを持っている相手が一人しかいなかったのだ。日本にいるアメリカ人ジャーナリストだったが、それでも毎日朝起きると必ず一通は来ていた。彼もメールの相手がぼくしかいなかったのか、ほとんどはとりとめもないことを毎日飽きもしないでよく書いてきたものだ。
そして、こんな便利なものをなぜみんな使わないのかと不思議に思っていたら、電光石火のごとく普及した。それでも数年前と今を比べるとまだまだ持っていない人の方が多かったので、便利とまではいかなかった。
活動の効率化
電子メールがない頃は、原稿やデータは、ファックスで送っていたが、写真はそういうわけにはいかなかった。今でこそ添付ファイルで送るのが当たり前だが、ほんの少し前までは、入稿日に間に合わせるために、近くの空港まで持っていかなければならなかった。アメリカにはどんな小さな町にも車で2,30分も運転すれば空港はある。そこからどこかを経由しても、日本に一番早く着く便に乗せるためだ。フェデックスでも入稿日に到底間に合わない。送る手続きだけでホテルとの往復も入れると2,3時間つぶれるが、雑誌に掲載される写真が成田空港に着いても編集部までの配達の手配をしておかねばならない。これだけで10万円以上かかることを考えれば、今はほとんど無料で、しかもホテルの部屋から送信できるわけだから、時間も費用もかなり節約できるようになった。おまけに、ハイ・スピードのインターネットが無料で使えるホテルが増えているので、あっという間に送信できる。最近イラクで日本人が誘拐される1,2日前に、似た場所で誘拐されて、釈放されたイギリス人記者に取材したが、彼の写真もバグダッドから送信してもらい、楽に入稿日に間に合った。昔なら不可能なことである。
原稿も当然のことながら添付ファイルで送信できるので、インターネットが使える環境さえあれば、どこからでも送ることができる。要するに、よほどの僻地でない限り、居場所は関係なくなるのだ。それだけではない。インターネットが使える環境にいれば、情報も瞬時にアクセスできるので、ほとんど困ることはない。もちろん有用な情報サイトは個人で会員になるには高すぎる場合があるが(法人資格でしか会員になれない場合もある)、それは費用対効果の点から考えると案外そうでもない。20年前に出た記事が瞬時にフルテキストで出てくることを考えると、図書館でマイクロフィルムを探す時間がすべて浮くことになるのだ。しかもキーワードでほとんどのメディアを横断検索できるから、これは昔なら不可能なことだ。
もちろん負の側面も・・・
しかし、インターネットを利用して不正を働くジャーナリストがいるから始末に悪い。、昔であれば起こりえない、インターネットを利用したジャーナリスティックな詐欺が起こる。世界で最も信用度が高いニューヨーク・タイムズの記者が取材に行っているふりをしながら、実際は電話だけで済まして、記事を書いていたり、USA Todayの記者がやはりすでに別の複数のメディアに出た記事をまるでパッチワークのように張り合わせて剽窃行為で解雇されたり、テクノロジーを悪用した、ジャーナリストとして恥ずべき事件が後を絶たない。剽窃を発見するソフトもあるので甘くみると一生台無しになることを念頭に置いてほしい。日本の大新聞の特派員記事もぼくが読めばちゃんと現地に行ったかどうか瞬時にわかるというものだ。
今世紀で最も偉大な純文学巨匠の一人と言われるトマス・ピンチョンとは、ニューヨークに住んでいる頃、お互いの子供が同じクラスにいたことから、毎日朝子供を送ったあとしばらく話す機会が3年間あった。ぼくはその時間をいつも楽しみにしていたし、お互いの家にもたまに遊びに行った。彼は自称Luddite(テクノロジー嫌い)だか、書斎に入ると、ちゃんとコンピューターで作品を書いている。最新作のMason & Dixonを書いている頃もよく書斎をのぞかしてもらった。ピンチョンは「コンピューターで書くと綴りもチェックしてくれるし、後から挿入するのも簡単だから、最後に仕上げるまでに何回も書き直すことができる。数百回書き直してもまだ書き直し足りない。締め切りがないので、いつ終わりにすべきか迷う。これがいいことなのかわからない。人間の脳の発達にはよくないような気がする」とため息をつきながら、ぼくによく言っていた。英語は日本語よりもはるかに同義語が豊富である。その同義語を探す機能もついているので、ますます脳の退化につながるとも言っていた。それでもやはり読書をしない人間は、もっと脳が退化するので、せめて多量の本を精読することは職業に関係なく、脳の活性化には必要ではないだろうか。テクノロジーの発達に伴って、脳のある部分が退化するというのは皮肉な話だ。作品だけで判断されるべきであると考える、ピンチョンのように世の中にまったく姿を見せない作家が日本に一人くらいいてもいいと思う。
取材活動以外でのインターネットの威力
しかし、インターネットがないと起こり 得ないことが最近起こった。37年前に卒業した小学校の同級生が、同窓会の幹事をしていて、インターネットの検索機能を使って、行方不明の卒業生を探していたらしい。ぼくの名前を検索していたら、ホーム・ページにヒットし、このホーム・ページを作っているところに問い合わせフォームでの連絡があったのだ。それがぼくのメールに転送されてきた。「お心当たりがなければ、お読み捨ててください」と最後に書いてあったが、小学校の名前が同じだったので、「多分そうです」という返事を出した。そこから一気にやりとりが始まり、「大野君、発見!」ということになったのだが、まるでタイムマシンで戻されたようだった。当時いたずら好きなぼくを毎日のようにひっぱたいた女性担任教師(今同じことをやると確実に解雇される)も高齢ではあるが、まだ健在だということもわかった。15年ほど前から学年同窓会を開いているとのことで、よく一緒に遊びに行った友人が「大野君と、阪神パークでのど自慢大会に出たこと」にも触れられていた。脳の奥の方にしまっていた、当時の記憶がナイアガラの滝のように、あふれ出てきたのだ。みんなオッサンとオバハンばかりらしいが、会うと小学校のときに戻ってはしゃぎまわるとか。
コンピューターやインターネットは確かに便利すぎて、ともするとその便利さを当然と思ってしまう。そう思っている間に、キーボードと叩くたびに漢字をどんどん忘れていくなど、脳の低下が起こっているかもしれないが、ジャーナリズムを含め、社会のすべての面で大革命を起こしたことは否定できない。ぼくが小学校の同級生に発見されたのもインターネットのおかげである。改めて、このホーム・ページを作ってくれているGlobe Walkersの佐島氏に心から感謝したい。
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