 |
|

第20回 大野流英語論
今回は、ぼくがほとんど毎日使っている英語の話しをしよう。英語による電話取材は、顔も見えない他人と内容のある話をするわけだから、正確な英語を話さなければならないのは言うまでもない。できるだけ、書き言葉で話すように心がけている。 日本では、小学校に英語教育をとりいれているところが増え、その是非について論争が巻き起こっている。また、次のような「開き直り」に聞こえかねない主張も、まるでそれが当たっているかのように聞こえるから、始末が悪い。アメリカ人の英語を見習う必要はない、日本人らしい英語で十分だ、LとRの発音も正確である必要はない、文脈でわかるはずだ、内容のない英語を話す必要はない、まさに侃々諤々である。
ネイティブの感覚を身につける
「諸君!」6月号でも、「愚の愚の愚 英語早期教育」で、お茶ノ水大学理学部の藤原雅彦教授と東京大学大学院の斎藤兆史助教授が、対談で頗る興味深いことを話している。
・
(藤原)外国語は文法を知らなくては、教養ある人がしゃべる格調の高いちゃんとした文章ができません。 その通りである。しかし、本当の英文法は、日本で教えられるほど単純ではない。日本人だと、2つの同じような日本語の文を見せられて、どちらが自然な文であるか理屈を知らなくてもわかるが、それと同じような感覚が外国語をマスターするときにも必要である。その感覚があるかないかで英語が本当にマスターできるか、できないかの分かれ目になる。「文法的に正しい」というのは、ネイティブ感覚で、おかしくないということである。何とか通じればいい、というレベルではない。何とか通じればいいと思っている限り、英語は絶対にマスターできない。コンマ一つでも、日本語に訳してしまうと、何の違いも出てこない文が、英語だけで”感じる”と微妙に違うことはしょっちゅうある。その違いがわからない限り、英語はマスターできない。
臨機応変な使い分け
・
(藤原)変な英会話を習って、中身のないことをしゃべる連中は、国際人どころか国辱です。アメリカ人が日本に来て、日本語で「超ムカつく」とか「ムズい」と言ったらヘンでしょ(笑)。
これもその通りだと言いたくなるが、「中身のないことをしゃべる」能力は、外国語でも必要であることを述べておく。ぼくの取材対象は、ほとんどがアメリカ人である。この前も今話題になっている曽我ひとみさんの夫であるジェンキンスさんの従兄弟(ノースカロライナ州)にあたるジェームス・ハイマンと話したが、極端に南部訛りが強い。その彼に、標準英語を話してくださいとは要求できない。当たり前である。ぼくは普通取材で本題に入る前に、くだらないことを言う。冗談も自然と口をついて出てくる。俗語も使う。相手はそういうくだらない話でリラックスし、本題に入る前にはかなり心を開いている。「変な英会話」を習う必要はないが、くだらない、内容のないことを英語で自由に話す能力は必要である。アメリカ人の兄弟同士が話す中にも自由に入れるほどの、「くだらない英語」を話す能力は必要である。これは、今世紀で最も偉大な作家の一人と言われるトマス・ピンチョンと話すときも同じである。マンハッタンに住んでいるときに、子供を学校に送ったあと、毎日のように彼と「くだらない話」もしたが、「くだらない話し」ができないような英語力は、本当の英語力ではない。ピンチョンとはまじめな話も随分したが、くだらない話しも同じ分だけやった。ぼくはアメリカに18年暮らし、そのうち取材生活は12年。取材で出会う相手は、ノーベル賞受賞者、世界的に著名な科学者、偉大な作家、ジャーナリスト、諜報部員、さらにホームレスにまで至る。今でも関係が続いている人も多いが、会って最初から難しい話をする人は誰もいない。みんなくだらない話から始める。外国人は俗語を使わない方がいいと主張する人も多いが、それも間違っている。使った方が効果的な状況はいくらでもあるのだ。
読書で培う語学力
・
(斎藤)(新渡戸稲造について)その英語力は、札幌農学校の図書館の蔵書を全部読んじゃうぐらいの読書量に支えられています。 これは反論の余地がない。英語でも日本語でも、読書に支えられない語学力は所詮貧弱である。耳だけで英語を覚えた日本人にも、アメリカで何人も会ったが、英語はでたらめである。それでも相当早口で、くだらない話しをしながら、アメリカ人の夫とコミュニケーションが成り立っているのをみると、不思議な気持ちになる。ちなみにぼくの場合は、日本語の本よりも英語の本を読む方が、仕事上はるかに多い。翻訳もたまに読むが、英語を読んだ方がはやい。その著者に英語でインタビューするのだから、英語で読んだ方がいいに決まっている。ワシントン・ポストの書評部に田辺邦夫氏がいるが、彼はもともと日本人で、最終的には、Kunio
Francis
Tanabeというふうに、ミドル・ネームを入れて、アメリカ人になった。彼の書く英語は格調高い立派なものである。ぼくとは日本語で話すが、その彼に日本語のエッセーを書いてもらったことがある(月刊「文藝春秋」)。そのとき、彼は英語で先に書いて、それを翻訳していた。あとから英語を勉強しても、母国語を追い越すことがある典型的な例であるが、彼の場合は英語のプロなのだ。そのことについてぼくの経験を言うと、コーネル大学に行っているときに起こった。ある日、日本語が口から出てこなくなったのである。脳の奥に日本語が存在することはわかっているが、出てこないのである。読むのも、書くのも、話すのもすべて英語の生活をずっと続けるとこうなるのか、という新鮮な経験だったが、アイデンティティが日本人なので、どうしたら日本語が出てくるようになるか、と悩んだこともあった。こういうときの解決法は日本語による読書が一番はやい。
基準はアメリカ英語
最後に、アメリカ英語は英語の一つであって、日本人が日本人らしい英語を勉強すればいい、何もアメリカ英語を学ぶ必要はない、という、最近はやりの主張に反論したい。何事にも基準が必要だ。英語でいうとその基準をアメリカ英語に置くのは、自然なことだと思う。語感にせよ、言葉の定義にせよ、基準がなければ、コミュニケーションが成り立たない。ぼくが中学生の頃はイギリス英語が強かったが、今はアメリカ英語が強いことは否定できない。そこに基準を合わせないと、コミュニケーションに支障をきたすことは目に見えている。ぼくと英語のできる中国人が直接話すときも、基準をアメリカ英語にすることで誤解が少なくなるのである。基準を日本人の英語にしたら、大変なごとになる。基準をアメリカ英語にするのはおかしいと主張して、抵抗することには何の意味もないし、利益もない。LとRの発音も文脈でわかるので、それほど気にすることはないと主張する人が増えているが、ほとんどのアメリカ人は、日本人の“癖”を知らないし、「文化の違い」が理解できるほどの教養もないので、通じない。まったく違う音であることは認識しておかねばならない。先述した、ジェームス・ハイマン氏に「日本語にはLとRの発音がない。riceもliceも同じだよ」と言うと、その話だけで何時間も持つほど、信じられない顔をしていた。ほとんどのアメリカ人は、日本、日本人のことは何も知らない上に、日本に住んでいるアメリカ人と違って、許容範囲がほとんどないのである。
|
|
|
|
|
 |