 |
|

第27回 読書と経験
人間と他の動物を分ける決定的な要素の一つは、考えることができるかどうかである。考える手段は言葉であり、それ以外ではない。あり得ない。言葉の限界が来ると、その表現法は音楽や芸術になるが、それを聴いたり、鑑賞したりしても、考えるときは言葉で考える。人が考えるほどアホではないと言われているが、それでもアホに変わりはないブッシュ大統領は、哲学的思考ができないと言われている。前の大統領選で、ブッシュに同行取材し、現在ニューヨーク・タイムズのコラムニストの一人であるクリストフ氏は、私がよく意見を本音で交換する知人でもあるが、彼はブッシュについてこう言う。 「ブッシュは考えることができない。本も読まない。人生とは何かということを深く考えることができない」
トマス・ピンチョンの深い思考
確かにブッシュは本を読まないことで有名である。本を読まないと深い思考ができないのは当たり前で、そういう人と話すとすぐに嫌気がさす。人生は長いようで、短いので文学は純文学以外読む必要はない。時間の無駄である。作家が数え切れないほど書き直し、これ以上の完成度を求めるのがほとんど不可能であるような作品は読む価値があるが、大量に書く作家の本は、書き直しの回数が少ないので、それだけ読む価値も減る。現代作家で頂点に立つトマス・ピンチョンは、彼の息子がぼくの娘とニューヨークの学校で同じクラスにいたことから、知己となった貴重な人だが、本当に寡作の作家だ。作品が出来上がるまで何回書き直すのか、と訊いたことがあるが、「数え切れないが、少なくとも数百回だ。昔はタイプで打っていたので、書き直しが大変だった。今は書き直しても、書き直しても後が残らないので終わりにするのが難しい。特にカズ(ぼくのこと)のように締め切りがないからね」と軽く笑う。彼の読む文学作品はすべて純文学である。純文学以外の小説を彼は”commercial”(商業用、営利用)と呼び、軽蔑する。ぼくと話すときも、言葉の選択に細心の注意を払い、言葉を選んで話す。自分では普通のアメリカ人よりは語彙が多いと勝手に思っていても、ピンチョンと話すときは、やはり難解な言葉を使われるので意味がわからないときがある。意味を訊いてすぐに覚えてしまうが、後から辞書を引いても出てこないことがある。バーベルを持ち上げていると錯覚するほど、重い、分厚いウェブスターの辞書で初めてその単語を見つけたときは、ピンチョンの語彙は一体どれだけあるのか、と畏敬の念を抱かざるを得ない。多分その言葉を普通のアメリカ人に使っても、まず通じることはないだろう。
経験は読書に勝る。でもすべてを経験することは出来ない。
読書をすることは深い思考をするための前提であり、読書をしない人は複雑な思考ができないことは当たり前である。しかし、読書には大きな落とし穴がある。頭でっかちになることだ。ぼくはアメリカに18年住み、学生として、ジャーナリストとしていろいろな経験をした。その間の経験は、もしぼくが日本にいたままで、何百冊もの、アメリカについての本を読んでも追いつかないほど中身が濃い。それこそぼくがその経験を言葉で表したとしても、それを読んだ人はぼくと同じ感覚にならない。それは経験をしていないからだ。子供に先立たれた親の気持ちは、経験しないとわからない。言葉の限界がすぐに来る。読書の重要性をあまりにも強調するあまり、体験しなくてもわかると錯覚する人がいるが、実際は体験しないとわからないことだらけである。本当に殺されそうになった人の気持ちも経験しないとわからない。これでぼくの人生はおしまい、という気持ちは言葉では表せない。頭で想像するのと実際に体験することの差は果てしなく大きい。体験していないけれども知っていると思っている人は、本当の意味ではわかっていないのだが、残念なことに、すべてを経験することはできない。だから読書は欠かせないのである。読書ばかりして頭でっかちになるのもよくないし、読書をしないで、複雑な思考ができないのも問題である。そのバランスが重要なのだ。 ぼくに対するイジメかもしれないが、ぼくに来る取材のほとんどは一筋縄で行かないものばかりである。人脈、知恵(時には悪知恵?)、英語(どういうわけか、日本人に対して、英語を使うことで情報が得られる場合も多い)、すべてを統合しないとできないものが多い。そういう知恵が沸いてくるのは、読書と経験がうまく調和したときなのである。
|
|
|
|
|
|
 |