日本のテレビ報道とアメリカのそれで最も違いが目立つのは、モザイクだろう。日本のテレビ報道を見ているとモザイクだらけである。モザイクをかける理由もないのにモザイクがかかっている。その点ではアメリカの方が正常だと思う。モザイクをかける理由の一つは、活字媒体で言えば匿名にするときと同じで、メディアに話したことでその人に被害が加えられないためである。しかし、実名と匿名の違いは天と地の差があり、それはモザイクか顔出しの違いと類似している。声を変えたり、モザイクにする、もう一つの理由は説得する時間がないから、放送に間に合わせるための姑息な手段でもある。
迫力のエネルギー
ジャーナリズムの基本は実名である。ニュー・ジャーナリズムの旗手と言われたゲイ・タリーズはぼくが尊敬するジャーナリストの一人であるが、確か”Honor Thy Father”(邦訳「汝の父を敬え」)をすべて実名にするために、説得に1年かけている。この精神はジャーナリズムにとって頗る重要で、フィクションとノンフィクションの違いを明確にする一線である。どんな小説でも、数年以上かけて書いた純文学でない限り、同時多発テロ事件のように、実際に起きた事件と比べるととてもチープな内容である。それは商業主義小説と呼んでもいい。今世紀最も偉大な作家の一人と言われるトーマス・ピンチョンは、これを”commercial”と言っていつもバカにしていた。コマーシャルな小説はあれほどのテロ事件の前では崩れ去るようにチープなストーリになってしまう。フィクションでは、実在する人間を使ったとしても、すべて名前を変えて登場させ、そのために取材するとなっても相手はどうせ実名で登場しないから、あることないこと何でも話す。ところがこれが実名となると話は変わる。まず迫力のエネルギー量が全然違う。本当にこういうことが起こったのだ、と思うだけで体がぞくぞくするのである。
モザイクの使用・不使用は作品の本質に直結する重要な分水嶺
モザイクに話を戻すと、なぜ日本のテレビはモザイクを多用するのか。テレビ局の人に訊いても納得のいく答えは得られない。その方が無難だし、顔出しすることで、想像もつかない事態が起きたときの心配がない、という。アメリカのテレビはモザイクを最小限にするので、加害者であろうと被害者であろうと顔出しすることが多い。日本はおまけに手錠にまでモザイクをかけるので、アホの域に入っていると言ってもいいだろう。知人のテレビ局の人がこの前言っていたのは、「最初は顔出しの約束をしていたが、いざ本番となると本人が怖くなって出ないと言い出した。もう時間がなかったから、話を聞いて、別の人に出てもらいその人にモザイクをかけて、本人から聞いた話を代わりにしてもらった」という。
最近読んだ本でとてもおもしろいと思った本に「ドキュメンタリーは嘘をつく」(草思社、森達也著)があるが、その中に「モザイクをいっさい排除することは自分にとって、作品の本質に直結する重要な分水嶺なのだという予感は確かにあった」というくだりがある。この気持ちはぼくが記事を書くときに、実名を出す感覚と似ている。記者によっては「匿名にしますから、コメントお願いします」と最初からコメントを取るだけの目的でアプローチする人がいるがこれは大きな間違いである。仕事を最初から簡単にしてはいけない。そうなると何でもありになってしまう。適当にコメントを作って、「ある大手メーカーの幹部は」と前に持ってくれば、それで出来上がりなのだ。話す側も責任がかかってこないから緊張しない。週刊誌の場合、毎週締め切りに追われるので、仕方ない場合もあるが、最初のアプローチからその方法を使うのは安易すぎる。
とは言っても、まだ内部にいて、外からは知り得ない内部情報をぼくに漏らしてくれる人を実名にするわけにはいかないし、する意味もない。情報源の秘匿である。そういうふうに貴重な情報源になるときは、実名を出すことはあり得ない。それはCIAが相手の弱みにつけ込んでくどき落とすエージェントと同じで、ばれたらエージェントは殺される。
ぼく自身も取材で実名を出すことで説得して、記事にした後で、大いにもめた場合がある。おまけに顔写真も出したのだから、ますます事は大きくなった。しかし、匿名にすると迫力が100分の1になってしまうので、そういう意味で実名で出すことで説得した。彼女からすれば、記事が自分が想像した内容と違っていたらしい。編集長は最初から折れるつもりでいたので、ぼくも敢えて主張はしなかったが、話し合いが終わって、相手が帰ったあと、「頭を下げたらそれで済む。これ以上事を大きくしない方がいい」と編集長は吐露していた。
実名報道の迫力
いずれにしても、ノンフィクションでは、情報源でない限り、できるだけ実名主義、モザイクなし主義で行く方が迫力がまったく違う。かなり前のことになるが、外国人が日本のタブロイド版の新聞に書いていたエッセイの中に出てくる人物に連絡したくて、そのエッセイストをつかまえようとしたが、どうしてもつかまらなかった。実在していなかったのである。自分の論理を通すために、捏造した人物をそのエッセイに登場させたのである。そういう嘘に対してぼくは異常な拒否反応を起こすのである。