昔から、関心を持っているテーマに、「生命と死」がある。「死」については、尊厳死、安楽死のルポタージュをいくつか発表し、実際のケースでかなりの長期の間、安楽死を実行した医師や尊厳死を遂げた人の遺族に取材した。ぼくが実際に直接取材する理由は、抽象論がきらいであるからだ。机上の空論にすぎない。取材に数ヶ月かかることもあり、電話取材は一切使わずに、すべて直接会うので、取材経費も馬鹿にならないが、経費がかかるのはルポタージュにつきものである。こういうセンシティブな取材で、相手のしぐさ、表情が見えない電話取材で済ますこと自体が、相手に対して失礼に当たる。本当にこのジャーナリストはこのテーマに対して真剣に取り組む気持ちはあるのだろうか、と思われるに違いない。
着床前診断の是非
「生命」に関しては、アメリカの妊娠中絶に関する大論争、デザイナー・ベイビーなどのテーマで取材してきた。デザイナー・ベイビーでは体外受精で受精卵を作り、その細胞の染色体や遺伝子を解析する着床前診断(チャクショウゼン)が、最近特に話題になっている。英語で、Preimplantation
Genetic
Diagnosisと言われ、普通PGDと省略される。アメリカでも最近は保険がカバーする傾向にあるので、ますます加速化されている。男女の産み分けだけでも使われているほとだ。日本でも、男女の産み分けの目的で、神戸市の産婦人科医がPGDを実施して、物議を醸した。このケースについて、信州大学助教授の玉井真理子氏は、『アエラ』で「自然に妊娠できるカップルが、着床前診断を受けるために何度も体外受精を試みる時代も到来しかねません」と危惧を表している。
3年ほど前に信州大学で、遺伝カウンセリングや遺伝子検査について取材したときに、玉井氏をはじめとして、複数の医師にもインタビューした。そのときに必ず指摘されたのが「玉井さんの子供はダウン症ですからね」という何気ない発言だった。後に知ったことだが、彼女自身も、ある医師との対談で自分の子供が障害を持つことを認めている。遺伝子診療部で出生前診断などのカウンセラーもしているが、多分彼女がそのカウンセラーになるきっかけになったのが、自分の子供なのだろうと思った。個人的な理由が人生の選択に影響することはごく自然なことだが、インタビュアーにとってはそういう背景を知っておくことはとても重要である。なぜなら、それがその人の考えに影響することが多いからである。ぼくは特になぜ今の職業を選んでいるかということを知りたいと思う。取材ではほとんど必ず訊くことにしているほどだ。
日本で、ダウン症の人がプールに入ることを拒否されたという記事を新聞で読んだことがあるが、アメリカではそういうことは考えられない。ノーマライゼーションが進んでいるアメリカでは、ほとんどの障害を持つ人が、普通に暮らしている。例えば、ぼくはかなりの近視で、メガネなしで階段を下りようとすると間違いなく、足をはずして落ちてしまう。メガネがノーマライゼーションにつながっている。かつてぼくが住んでいたマンハッタンでは、障害者が一人で住めるように道路も、レストランもどこもかしこもバリアフリーになっている。ノーマライゼーションが進んでいるのだ。
玉井氏は、『アエラ』で「こうした診断(PGD)により、『生まれてこないほうがいい命』と障害者にレッテルを貼ることになるという強い反対論もあり、出生前診断をめぐる議論はつきませんし、誰でも望めば受けられるというものではありません」と書いているが、ぼくが実際にインタビューしたこともある、UCLA医学部のグレゴリー・ストック博士は、その著書『それでもヒトは改変する』(オリジナルのタイトル:Redesigning
Humans)で「いつの日か私たちは、先端的な胚選択テクノロジーを用いたもっと洗練された方法で、自分の子供の遺伝子を操作するようになるだろう」とさらに進んだ意見を書いている。ストック夫妻はどちらも不妊症ではないが、それでも体外受精で「最もいい受精卵」(ストックの言葉)を選んで、それを子宮に戻し、子供を作っている。玉井氏が最も懸念することをすでに実行しているのである。
「人それぞれの考え方があるのは当然ですが、ダウン症の子供とそうでない子供を自分で選べるとしたら、誰がダウン症の子供を選ぶでしょうか」とストック氏は鼻息が荒い。もし検査法がなくて、ダウン症の子供が生まれてきたら、それを受け入れて、幸福を追求しようとするが、今現に検査方法があるのに、それを使うことを非難するのはおかしい、という。社会がそういう子供を受け入れる基盤を作り、差別がまったくないような社会を作る方がもっと重要です、とストックは言う。「検査して、異常がわかり、中絶する親を非難してはいけない。その子供が自分たちが死んでもちゃんと生きていける社会の基盤がなければ、一人の問題では済まないからです。周囲にかかる負担のことも考えなければなりません。」
実際に異常が見つかってそれでも産んだ親たちは「その子のおかげで命の大切さ、生きることの楽しさを知ることができました。産んでよかったと思います」と言う。これに反論する気は毛頭ないが、これは、いくら本を読んでも、決して得ることができない考えである。
あえて苦しい道を選ぶか?
ぼくの父もその父も、タバコの吸い過ぎで 肺がんで亡くなった。最近はがんと共生状態で長生きする人も増えているが、「がんになることで、人間の本性、優しさ、命の大切さ、人生のことを深く考えるようになった。だからがんになってよかったと思っています」という人もいる。この発想は、「ダウン症の子を産んでよかった。命の大切さを教えられたから」という発想と同じである。「病気になってはじめて、健康のありがたさがわかる」という陳腐な言い回しがあるが、その発想と同じであろう。もちろんぼく自身が、病に倒れると、同じように、今よりももっと哲学者になると思う。
しかし、がんになるか、ならないか自分で選択できるとすれば、「人生を深く考えるために、がんになる方を選ぶ」人はいないだろう。だから、ぼくは死んでもタバコを吸わない。
とは言うものの、自分の死に方も選べない。明日ぼくは電車事故に巻き込まれて死ぬかもしれない。あるいは交通事故で脳死状態になるかもしれない。植物状態になるかもしれない。誰もそれは予想できない。身内がガンになった場合、心の準備をする時間があるが、事故などで突然死した場合は、その準備がない。日ごろからできるだけそういう目に遭わないように、最大限の注意を払っていても、運命は過酷である。起こってはいけない不条理な死が起きることもある。
しかし、死や生命を個人的なものではなく、もっと大きな哲学的観点から見ると、やりきれない気持ちやトラウマから脱するのも早くなるのではないか。これだけいろいろな人に直接会っていると、つくづくそう思うのである。