基本的にぼくは人よりも記憶力がいいとは思わない。むしろ悪いと思うくらいである。なぜなら、まるで記憶力そのものをテストされるような、社会(歴史、地理など総合的な意味で言う)が子供の頃ほとんど覚えられず、試験の前になると勉強するのがもっとも苦痛を覚えた科目であったからだ。言わば足を引っ張る科目であった。しかしながら、小学校高学年のときに習い始めた英語によって、それが一転した。復習がまったくと言って必要ないほど一回で覚えられる。英文法には特に魅力を感じ、中学3年のときまでに、学説が詳細に出ている専門書を読破し、そこから日本語をみるといつも日本語の不思議さを感じながら、同時に記憶力とは何かという疑問が脳裏から離れなかった。
高校のときにはかなり英語の原書を読んでいたが、そのときは、何ページの何行目にどういう英語の表現があるかまで、何の苦労もなしに覚えていた。別に覚える努力をしたわけでもない。だから英語でエッセイを書くときも、ネイティブが使う自然な表現が普通に出てくるし、覚えた表現ではなく、ネイティブならこういうだろうと新しい表現も自然に出てくるのである。高校2年のときの英文解釈の授業はぼくが教壇に立って教えていたことがあるが、「その単語は何ページの上から何行目にあった」とよく言ったものだ。東京大学で海馬の研究に勤しんでおられる池谷裕二氏にそのことを話すとサバン症候群に近いものがあると指摘されたことがあるが、不思議なことにそれを“社会”科目に当てはめることはできない。それは海馬に隣接している偏桃体に関係があるらしいが、昔から言われている「好きこそものの上手なれ」の科学的説明に当たるかもしれない。数学も同じである。高校の夏休みに、ふと気づくと休憩なしで16時間も数学の難問を幾通りもの方法で解いていたことがよくあった。しかし、それが歴史とか地理となると、1時間もすれば脳が拒否反応を起こしていたのである。一種のアレルギーと言っても過言ではなかった。
記憶できること、できないこと
取材でたまに、録音を拒否されることがあり、しかも当然録音できるものと思っていたから、隠し録音の準備もしないまま相手に直面することもある。そういうときでもメモは取っていいと言われるので、英語に対する記憶力が非常に役に立つのである。もちろんそういう能力は通訳には欠かせないものであるが、相手が使ったそのままの表現で覚えている。訳して覚えようとするとうまくいかない。母国語である日本語ではそういうわけにはいかないからだ。
ただ取材となると、日本語であれ、英語であれ、相手の表情から、しぐさ、服装、さらに目つきまで非常に細かいことまでほとんどすべて覚えている。しかし、当然覚えていないと家族に馬鹿にされるような日常のことでも、仕事に関係がないと、忘れることが多いから、記憶は本当に不思議なものである。こういう現象を総合的にみると、脳は決して無限ではなく、限界があるのではないか、と思ってしまうのである。できるだけ脳に負担がかからないように、取捨選択しているのだろう。15年前にやった取材でも、昨日のことのように微に入り細にわたって覚えている。いやなことはすぐに忘れてしまう、あるいは脳の奥に入ったまま引き出すすべを考えようともしないから、よほどこの仕事が好きなのであろうと思ってしまうのだ。
日米における遺族の違い
さて、取材というのは、口を開きたがらない人を相手にするので、きらいであれば、これほどストレスがたまる仕事もないと言われている。最初の接触で取材拒否にあうと、ぼくはやる気満々になってくる。特に週刊誌の場合は時間がないから、ますますやる気が出てくるのである。陸上競技で言うと100メートル走だ。長距離走よりも100メートル走にはるかに魅力と迫力を感じるのは、短時間に全エネルギーを注ぎ、それで優勝したときの達成感が共通しているからだろう。
相手の閉ざした心をどうやってこじ開けるか、思案する過程がとても楽しい。ほとんどの場合、お金で解決しないからさらに面白くなるのである。お金もこういうときは無力になることが多い。被取材者も、自分がお金でしゃべったと思われることがいやだから、よけいにお金では動かなくなる。
一般論で言えば、取材に応じないで、記事に正確さを要求するのは矛盾するから、できるだけ取材に応じた方がいいとぼくは思うのだが、自分が話したということがばれたくなければいくらでも逃げ道はある。門前払いは本当に辛い。その点似た状況下では、アメリカ人の方がきちんと取材に応じる。9.11同時テロ多発事件が起きた直後でもそうだった。事件が起きて4日後にNYに飛び、日本人の遺族に取材しようとすると、説教を聞かされておしまいだったが、アメリカ人の場合は、悲しみのどん底にありながら、きちんと取材に応じる場合が多かった。これは国民性の違いか、メディアに対する考え方(不信感?)の違いか、その両方だとぼくは思う。1999年にデンバー近郊で起きたコロンバイン高校での乱射事件でもそうだった。事件直後の遺族へのインタビューもそれほど苦労しなかったのである。
幸福への第一歩とは?
世の中お金で解決できるものもたくさんあるが、できないものもたくさんある。「人生は一回しかない」この事実はお金で解決できないことの最たるものである。だから、一瞬一瞬を真剣に生きる理由の中で最も説得力のある理由だと思うのだが、その一回しかない人生をどう生きるか、は個人にかかってくる。だから好きでないこと、あるいは好きでも嫌いでもないことをしながら人生を生きることは、人間に与えられた使命に反する気がする。何でもいい、自分の特技を生かして、天職を見つけることが幸福になる第一歩ではなかろうか。