自伝というと、本人しか知りようがない、今まで明かされなかった“事実”が出てくるので待ちに待って読むが、ほとんどの場合失望する。数年前、インドでの2週間の過酷な取材で、女盗賊プーラン・デヴィについて、本人のみならず、母親、知人などに精力的に取材したときもそうだった。取材中に、彼女の自伝「女盗賊プーラン」が出ることがわかり、それを読んでから原稿を書いたが、まず上下二巻の自伝を読んで、肝心な部分が2,3行しかないので、だまされたと思ったことは今でもはっきり覚えている。ぼくが最も知りたかった部分というのは、彼女がベーマイ村でいかにして復讐を実行したか、という部分で、そこを知るために、途中道なき沼地でジープがはまり、通行人をできるだけ多く集めて、車を引っ張り出すまで数時間かかっても、その村にたどりついて取材したのである。だからぼくが書いた記事のタイトルは『誰も書かなかった女盗賊プーラン・デヴィ「復讐と虐殺」の現場』である。
虚言者ヒラリー
次にヒラリー・クリントンの自伝だ。ぼくはたまたま雑誌の取材で彼女については相当取材していた。彼女自身の不倫、野望についても精力的に取材し、彼女を知る人が異口同音に”She
is a pathological liar.” (病的虚言者)か”She is a congenital liar.”(先天的虚言者)というか、どちらかであった。だから、彼女の自伝を読むことは意味がないことはわかっていたが、どれくらい虚言癖があるかを知るために読んだ。まず失望したのは、文体である。文体がないのである。知人のアメリカ人ジャーナリストに、文体がないことを指摘すると、「あれは数人のゴーストライターが書いて、最後に共通の“文体”にするために、統一したから、いわゆる“文体”がなくなった」と教えてくれた。どの言語でもそうだが、活字の場合は文体が重要である。その文体がまずない。しかも書かれていることはフィクションばかりであるから、自分の野望を達成するために書いたとしか考えられなかった。彼女は所詮そういう人だから。最近出版された”The
Truth about Hillary”は、ぼくのNY時代からの知人であるジャーナリスト、エドワード・クライン氏が書いたものであるが、この間聞いたら、93人に取材したという。しかも彼女に近い人ほど、彼女にどれほど怯えているかよくわかった、だから取材に応じさせるのに苦労した、と言っていた。邦訳はないが、読んでみるとヒラリーがもっとも書いていない部分がみごとに暴露されている。痛快だった。これほど自伝と伝記の差が大きい本を他に見たことがない。
自伝は信用しないほうがいい
もう一つ。ハッカーであるケビン・ミトニックの逮捕に大いに貢献した、日系人下村勉はぼくが3日間追跡し続けて、つかまえたが、彼が書いた自伝的著書『テイクダウン』よりも、ジャーナリストである、ジョナサン・リットマンが書いた『FBIが恐れた伝説のハッカー』の方がはるかに客観的で、包括的でおもしろい。それはきちんと多くの人に取材しているからだ。
自伝がジャーナリズムではないことに反論する人はいないが、何も知らない人が読むと、やはりだまされてしまう。肝心な部分がなかったり、言い訳っぽく書かれていたり、ひどい場合は嘘が書かれていることが多い。要するに、自分しか知りえない部分は、嘘をついてもばれないと思っているからだ。しかし、さまざまな角度から取材すると、矛盾が生じてきて、事実でないことがわかってくる。
英語の表現にwith a grain of salt という便利な表現がある。「一粒の塩を加えて」というのが直訳であるが、「話半分に」という意味である。”take ~ with a grain of salt” (鵜呑みにしない。疑ってかかる、割り引いて考える)という使い方をするが、知人のアメリカ人のジャーナリストに、ぼくの自伝に対する考え方を言うと、彼は、with a grain of saltどころか、with several grains of saltと言っていた。数粒の塩を加えるのだから、自伝は信用しない方がいいと言うことだ。