今年もあっと言う間に1年が経とうとしている。活字メディアの衰退を感じながらも、やはりベストセラーが出ることを考えるとまだまだ捨てたものではないと思うが、時間をかけてこつこつ取材した社会派のノンフィクションがベストセラーにならないのは、やはりどこかおかしいのではないか。日本とアメリカの差をここで感じるのはぼくだけだろうか。アメリカで言うと、ジャーナリストとして最高の地位を築いたデイビッド・ハルバースタムとかリチャード・プレストンは、必ずアメリカではベストセラーになるが、邦訳はベストセラーには程遠い。なぜこんなに中身のある質の高い本が売れないのか、わからないが、一方日本でベストセラーになる本をみると、そのほとんどはゴーストライターが書いたものや、編集者の知恵がかなり入ったものだ。ストーリーの展開まで編集が知恵を出すのだから、もはや著者の作品とは言えないだろう。ベストセラーをかなりのペースで出しているS氏は自分で書いていないが、彼の本を買う人は、彼が書いているものと思って買っている。こういう書き手が増えているのは嘆かわしいと思う。ある編集者は、最近一緒に食事をしたときに「自分で書かなくなったら、その作家はもうおしまいですよ。読者をだますことになるから一種の詐欺です」と言っていたが、『バカの壁』で突如ベストセラー著者の仲間入りをした養老孟司氏は自分で書いたのではなく、自分は話しただけで、まとめたのは編集者の後藤氏だと前書きに書いている。自分が書いたものがベストセラーにならずに、話したものが他人にまとめられて、ベストセラーになると、自分で書く気がしなくなるのではないか、と心配してしまう。これはまことに皮肉な現象である。純文学の世界で、ゴーストライターが書くことはあり得ないが、これも皮肉なことにベストセラーにならない。しかし時代を超えてロング・セラーになり、文学史にちゃんと残ることは意義深い。
電話一本で済む名前の発音確認
もう一つ今年気になったことは、邦訳が出るときに名前が間違っていることだ。例えば『人はみな「ビジネスの天才」として生まれる』の著者はアラン・グレガーマンであるが、邦訳はどういうわけか、“グレジャーマン”。本人と一回電話で話せば、名前の発音の確認ができるはずだが、原著者と話してみると翻訳家とも何回か直接話したという。ますます“ガー”が“ジャー”に聞こえる耳はどんな耳をしているのか、不思議でならない。私が『正論』1月号に発表した『「ヒトはどのように誕生したか」をめぐる熱い論争』で取材したマイケル・ビーヒー氏は、アメリカでベストセラーになった『ダーウィンのブラックボックス』を出しているが、どういうわけか“ベーエ”になっている。本人にそのことを伝えると、“えー!ぼくの名前はビーヒーだよ。今さら言っても遅いが、ちゃんと翻訳されていることを望んでいるよ”と心配そうに言っていた。電話一本で済む名前の発音の確認をなぜしないのか、これも理解不能である。『忠誠の代償』は編集者を直接知っていたので、「サスキンドではなくサスカインドです」と伝えたときはすでに印刷したあとであった。どういうわけか、アマゾンではちゃんとサスカインドに修正されている。テレビ取材でサスカインド本人に取材しているが、出版直前にサスキンドと邦訳がなっていると知ったときはあわてて連絡した。編集者はアメリカに出張中だったが、最近修正されていることを知ってほっとしている。ぼくの名前が「おおの」ではなく「ダイヤ」と書かれるようなもので、やはり気分はよくない。今後翻訳家は一回でもいいから、著者と直接話してもっとも発音に近い表記にしてほしいと思う。これは翻訳を始める前にすべき作業だと思う。
翻訳家の責任
翻訳家は本を出す限り、名前の表記を含めて、その中身に100%責任がある。英語の問題ではなく、背景知識の不足でわかりにくいところが出てくると、著者が健在である場合は本人に訊くのがベストだ。ピンチョンの『ヴァインランド』が翻訳されるときに、彼はぼくに「とにかくどんな質問でも答えるから、翻訳家にそのように伝えてほしい」と言ってきた。誤訳されることほどいやなことはないが、彼の作品は英語の問題だけでは終わらない。とにかく本人でしか答えられないことが多く出てくる。そのことを知っていたぼくはすぐに担当編集者にそのことを伝えると、ちゃんと翻訳家にメッセージが伝わり、出来上がった翻訳はかなり分厚い注釈がついていてほっとした。ピンチョンも一つ一つ丁寧に答えてくれたので、大変だったと思うが、自分の作品が超難解であることは知っているので、協力を惜しまなかったのだろう。
ともかく、邦訳を読む人は原書を読まないことが多いので、細心の注意を払ってほしい。