このコラムでも指摘してきたことだが、読書は人生を満喫するためには不可欠である。しかし、実際の経験とのバランスが悪いとマイナスになることもある。ぼくは、中学まで本をあまり読まなかった。中学では新聞部に入り、取材、執筆、編集に携わっていたが、数学と英語が頗る好きであったために、家にいるときは学校の進度を完全無視して自分のペースでどんどんやっていた。読書に目覚めたのは、高校に入ってからだ。夏目漱石に始まり、ギリシア哲学に至るまで片っ端から読破していった。小説は純文学以外のものは一切読まなかったし、今も読まない。時間の無駄である。英語の作品も原書で読み始めたのは高校に入ってすぐのことだった。翻訳が出ていない原書をかなり読んだ。英語の単語や言い回しを調べるときは、英和、英々辞典の両方を引いたが、英和に出てくる日本語の意味がわからずに、そこからまた国語辞典を引くことも多かった。そうすると案外言葉が増えていく。自然に日英語の両方が相乗効果を得て増えて行くのだ。東京外語大に入っても専門は英米だから、毎日のように英語に接する。バイトも英語教師。他に翻訳、添削など。夜は必ず英語の原書を読むから、大学時代読んだ英語の本の冊数は数え切れない。
読書だけの欠点
大学で、多くの本から、アメリカについて勉強し、かなり博学になったつもりだったが、実際アメリカに行くと、どこか違う。それは本に書かれていることが嘘ではなくても、”精製“された知識であるからだ。藤原正彦氏は『国家の品格』で、アメリカかぶれになって帰国し、帰国後もアメリカ流を通したことを書いている。そして、「論理の力」を疑うようになり、「情緒」の意義を考えるようになった経緯が縷々と書かれている。反論などするつもりはないが、藤原氏の今の考えは、こういう経験を直接しないと到達しなかったものだと思う。つまり最初から、日本人の「情緒」はこの上なく大切なものだから、海外に行くこともなく、英語もできなくてもいいから、とにかく大切にしようと主張しても、説得力に欠ける。言われた方はそう簡単に痛感するはずがないのである。日本が確かに「国家の品格」をなくして、アメリカに追随するようになったことは嘆かわしいが、これを本当に実感するには、藤原氏のようにアメリカの論理の中で一度はもまれるしかないと思う。どれだけ本を読んでも、それは無理である。ここに読書だけの欠点がある。
「外国語よりも読書を」
藤原氏はごく普通に英語でアメリカ人と渡り合える。その藤原氏が「真の国際人には外国語は関係ない」とか「外国語よりも読書を」と提唱しているのは、逆説的だ。というのももし藤原氏が英語ができなければ、こういう結論に達していないだろうからだ。「我が家も1年間英国で暮らして帰国した後、せっかく覚えた英語を忘れないよう、子供たちに週1回、英国人の家庭教師を付けていました」と書いてある。ぼくの娘は、アメリカ生まれで、幼稚園から小学校1年生までマンハッタンの私立の学校に入れた。娘と同じクラスに、文豪ピンチョンの息子がいたのだから、それは何にも置き換えられない貴重な経験だったが、帰国後も藤原氏と同様、ネイティブの教師に毎週、英語の読み書き(これができないと意味がない)をネイティブが使うテキストでやってもらった。
日本の小学校で英語を採り入れる制度には、藤原氏と同様反対するが、それは英語圏で、英語漬けの教育を受け、独り言も英語で言うほどになった後に、その英語力を維持するために、ネイティブに、日本人だからといって加減することなく、週一でみてもらうことと、英語ができない状態から週一でやることは、まったく意味が異なるからだ。後者は意味がないのである。
streetwiseな知恵は、経験から来ることがほとんど
取材が本からの知識だけでできるようになれば、どれだけ楽なことだろう。もちろん読書は欠かせない。私の場合は、英語でインタビューすることが多いので、英語の読書もかなり多い。もちろん日本語の読書も普通よりははるかに多いだろう。教養がない人が取材するとすぐに見抜かれるので、相手にしてもらえないこともあるだろう。それでも、現場では経験が多い方が、強いのである。streetwiseな知恵は、経験から来ることがほとんどである。相手の気持ちを察することができるようになるのも経験であろう。読書と経験のバランスがくずれると、「本にはそう書いていなかった」と釈明して、取材に失敗することは目に見えている。ぼくがNYで取材活動をしているときに、コロンビア大学大学院のスクール・オブ・ジャーナリズムを卒業したバイリンガルの日本人女性をアシスタントにつけたことがあった。ぼくに依頼がくる取材は、そのほとんどが一筋縄で行かないものばかりだ。正面から取り組むとすぐに行き詰る。彼女は、最初から躓いたことが多かったが、そのたびに「コロンビア大学でそれは習わなかった」と言い逃れをしていた。テキストに書かれた方法で取材ができるのなら、マニュアル通りに取材ができるのなら、これほど楽な職業はないだろう。実際の取材は、映画と違って、命の危険を伴うこともあれば、一回の取材で人間関係が切れることもあるのだ。
世界中どこにいても、いつでも平静心を保つには英語は必要
昨秋、テレビの取材でスイスに行ったとき、あまりにも過激な取材をしたために、警察を呼ばれ、連行された。ディレクター、カメラマンと3人別々の部屋で尋問を受けるが、英語があまりできなかったカメラマンは「やっぱりこういうときには英語ができないと話になりませんね」と痛感していた。何を訊いても答えなかったカメラマンは服を脱がされたのである。放送に間に合わせるために、カメラマンがとりあえず、一人でテープを日本に持って帰る話しもあったが、「ぼくは一人で動いたことがないから、知らない言語環境の中にいると不安で仕方ありません。外国の空港に一人でいても不安です」とも言っていた。日本にいる限りは、英語はほとんど必要ないだろう。しかし一歩外に出て、何か緊急事態が起こったときに、英語で必ず放送されるから、英語がわかれば焦らなくてもいい。世界中どこにいても、いつでも平静心を保つには英語は必要だと思う。ぼく自身、そういう状態に世界のあちこちで何回も遭遇しているから、経験から言っているだけである。世界中に取材に行くぼくは、テレビ取材以外は、一人で行くことが多い。英語が公用語でない国にも飛ぶ。どんな国に行っても日本語ができる人を探すのはほとんど不可能であるが、英語ができる人を探すのはあっという間だ。
真の意味で、アメリカの怖さ、よさを肌で感じるには
日本の長所を頭だけでわかるのではなく、実感するには、ぼくのように18年もアメリカに住む必要はないが、数年は海外に住む必要があるだろう。もっと言えば、特派員や駐在員のように、会社に守られない方がいい。何もかも自分でやらないといけないからだ。訴えられても自分で弁護士を探さなければならないが、駐在員の場合は、会社が探してくれる。真の意味で、アメリカの怖さ、よさを肌で感じるには、駐在員として行かない方がいい。
最後に、今話題になっている『ドラッカーの遺言』という本の最後に書かれている卓説を引用する。
<日本の若い世代の人たちには、20代から遅くとも30代前半のうちに、少なくとも2〜3年は日本を離れて、他国で働く経験を積むことをお勧めしたいと思います>
同感である。