◆講座情報
◆コラム
第1回〜第30回
第31回 子供の安全を守るメーガン法
第32回 中井貴恵極秘結婚式の場合
第33回 ジャーナリストという仕事
第34回 ジャーナリズムの基本は実名
第35回 生命と死について
第36回 私の危機管理術
第37回 お金で解決できないこと
第38回 自伝の嘘
第39回 雑感
第40回 経験と読書のバランス
第41回 日本の放送メディアの問題点
第42回 インタビューの種類
第43回 ジャーナリストに求められる倫理とは?
第44回 翻訳の功罪
第45回 小学校英語について
第46回 アメリカの道路と日本のそれの違いが示すもの
第47回 父親の箴言 雑草のごとく生きよ
第48回 一流とは
第49回 テレビ取材の難しさ
第50回 英語の難しさと効用
第51回 今年1年を振り返って (英語の威力を改めてみせつけられた1年)
第52回 ユーモアの重要性
第53回 日本のメディアのテーマ




第44回 翻訳の功罪



翻訳は、必要悪とでも言うしかないが、できるなら原文で読むのがいい。特に純文学となると、作家は言葉一つ選ぶのでさえ、慎重になっているのに、それを他の言語に置き換えると、どんなに優秀な翻訳家が訳したとしても意味がずれることがあるからだ。翻訳の宿命である。かと言って、原文で正確に読む力のない人が原文で読むと誤解だらけになるので、翻訳はどうしても必要になる。


原文を読む意義

『正論』8月号に掲載された記事でおもしろい記事があった。ぼくの東京外語大の先輩である森山尚美氏によるものだが、『原文にない「戦争責任」を連呼する昭和天皇の和訳書』という記事だ。ハーバート・ビックスが書いた『昭和天皇』について『AERA』など、雑誌、新聞で激しい論争が繰り広げられたことは記憶に新しいが、森山氏によると、「単語の間違いから構文の読み違いまでありとあらゆる種類の誤訳がある」という。その翻訳だけを読んで、歴史学者、評論家たちが騙され、議論してきたというのだから、まるで間抜けである。特に言いたいのは、おかしいと思った歴史学者が原文に当たらなかったということだ。

ぼくは、翻訳の限界を知っているので、英語の場合は必ず原書を読む。特にインタビューする際は、必ずそうする。翻訳を読んで、それを元の英語にしてインタビューすると、「そんなことは書いていない」と言われることがあるに決まっているからだ。普通翻訳となると、元の言語に戻して翻訳しないことが前提であるが、ぼくの場合は、英語でインタビューするので、もし原語で読んでいない場合は、翻訳をさらに英語に翻訳することになる。おもしろいことにこれをやるとかなりずれるのである。ぼくは原書を読むから、この現象は起きないが、ある出版社の翻訳担当の人にきいたら、こう言っていた。
<来日した著者(原著は英語)に英語で取材する場合、インタビューする人が英語ができない場合は通訳をつけざるを得ません。ところが通訳の人が原著を読んでいないので、インタビュアーの日本語を通訳するしかありませんが、かなり正確に訳していても、相手の著者はきょとんとしていることがあります。つまり、そういうふうに書いている部分がない、ということです。実際に、そう言われることもよくあります>
本から直接引用する場合、原文のまま引用しないと、通じないことはよくあるだろう。だから、こういう場合は、原著で読むしかないのだ。いくら翻訳された日本語を正確に英語に戻しても、通じないことはあるだろう。特に小説となるとますますその確率が高くなる。

ぼくは昔、よく日本文学を英語で読んだ。それは英語で読むとどれだけ読んだ印象が変わるか実感するためである。頭に浮かぶイメージがどれだけずれるか、実感するためである。これは日本語の勉強にもなるし、英語の勉強にもなるので、お勧めしたい勉強法の一つであるが、最近は村上春樹の作品を日英語両方で読んでいる。何でもない日本語が英語にどう訳されているのか、を研究するだけでもかなりの勉強になる。最高の翻訳と言っても過言ではないので、文体もどのように移しているのか、それについて比較するのも頗る楽しい。


間抜けな書評にならないために

これは翻訳に直接関係ないかもしれないが、最近、カズオ・イシグロ氏にインタビューして痛感したので書いておく。それは書評の問題だ。イシグロ氏の最新作『わたしを離さないで』の書評はどれを読んでも、奥歯にものがはさまったようなものだった。種明かしをしてはいけないと、書評家が勝手に思い込んでいたのだ。本人にそのことをきくと、書評家に指摘されるまでそのことを意識しなかったというから、ほとんどすべての書評が、間抜けになってしまった。どんなに優秀な文芸評論家でさえも、著者の一言で覆されると、間抜けの書評になってしまう。だから、ぼくが書評を書くときは、どれほど短いものでも、本人が生きている限りは、必ず本人にインタビューすることにしている。間抜けの書評にならないようにするためだ。短い書評でも、電話で著者に確認することで、自信を持って書ける。特に、作品を通して読者に伝えたいことが、ずれているとこれほど恥ずかしいことはないので、せめてそれだけは確認しておいた方がいいだろう。

ぼくの場合は、日本の著者にインタビューすることはないので、どうしても海外への電話によるインタビューになるが、それでも、著者は少数の例外を除いて、取材に快く応じてくれる。エージェントを通すと面倒なので、直接自宅にかけることも多いが、拒否されることはまずない。トマス・ピンチョンのように、表向きには絶対に取材に応じない場合は、特別の関係にない限り、あきらめるしかないが、本人に聞くと「書評や作品研究は、ほとんどが当たっていないが、彼らはそれを職業にしているので、別に口を挟む気はない」と割り切っている。ただ、その研究書や書評を頼りにして、本を読んでしまうと、いささか危険かもしれない。ピンチョンの『ヴァインランド』が翻訳されるときは、ピンチョン本人は喜んでどんな質問にも答えると言っていたので、解説だけでも1冊の本ができるほど、詳しい解説がついていた。本人からの返答による解説があれだけつくと、かなり正確に読めるだろう。またそれだけの解説がつかないと読めないのだから、アメリカ人でさえ普通には読めないということだ。作品が出来上がるまで書き直す回数を聞いたら、数百回とか。気が遠くなる話である。