ここ数ヶ月、テレビ取材で海外に行くことが多くなった。ほとんど日本にいないほどである。ぼくは本来活字人間だから、録音するかメモを取ることさえできれば、取材はできる。ところがテレビではそういうわけにはいかない。映像が必要である。活字でも、ぼくは、取材拒否にあいそうなテーマをよく依頼されるが、テレビでも同じだ。依頼されるのは、一筋縄ではいかない取材ばかりである。それだけに、やる気が起きてくる。簡単な取材であればわざわざぼくに頼む必要もないだろう。
カメラの存在の重さ
映像が必要であることは、取材拒否されている光景の映像も必要であるということだが、相手は大きなテレビ・カメラを見た瞬間に切れる場合もあるから、このカメラの存在の重さを痛切に感じている。「カメラを回さなければ話す」という相手もいるが、活字なら別にそれでいい。しかし、テレビはそういうわけにはいかない。取材されるという点からみれば、カメラがあるのもないのも同じだと思うのだが、どうもそうではないらしい。ドキュメンタリーを作る場合、相手がカメラの存在に慣れるまで、テープを入れないで、1ヶ月間カメラを回すこともあるくらいだ。活字なら、そこまでしなくてもいいし、メモを取るだけで十分である場合も多い。活字の取材では、録音を禁止される場合もあるが、メモは取ってもいい。この段階から、カメラを回すというレベルまでの壁は厚く、テレビ取材の苦労を痛切に感じている。活字の方がはるかに楽である。また、同日に撮影しても、急に天候が変わると、編集するときに映像がつながらなくなる。そういう悩みは活字では一切ない。ディレクターは、絶えず編集の観点から考えて、いつどこでどういう映像をおさえておくか意識しておかなければならない。だから、首都ワシントンに行くたびに、国会議事堂を撮影し、町の雑感も撮影する必要がある。前撮影したから、それを使えばいいというわけにはいかない。活字ではまったく関係のない部分である。
テレビ取材でのインタビュー方法
インタビューそのものは、活字もテレビも同じだと思われるが、そうではない。活字では聞き逃したら、あとで電話をかけて聞くことができるが、テレビはカメラが回っているときに、その発言がなければならない。だからそれだけ神経を使うことになる。さらに取材相手が勘違いをしてコメントした場合、活字では後で再確認の電話をかけて、修正の機会を与えることができるが、テレビではそういうわけにはいかない。カメラの前での発言が必要である。だから、活字用取材で30分で終わるような取材でもテレビ取材では、2,3時間かかってしまう。また、こちらが質問して、相手がそれに肯定の返事をしても、当人の口から、発言そのものが必要であることが多いので、活字なら考えなくてもいいような、質問の方法を考えなければならない場合もある。相手は俳優でも女優でもない。だから、ディレクターが考えている映像にならない場合、それに近づけるために、あの手この手で質問を変える。やらせではない。内容が同じでも映像的につながらない場合は、つながるような映像がとれるまで聞き方を変えなければならない。自宅を訪問するところも、インタビューが終わってから撮影することがよくあるが、相手は俳優ではないので、インタビューが終わってからやると、にやにやしてしまう場合もあるし、自然な雰囲気が出ない場合、出るまで何回も撮影することになる。アポありで取材する場合でも、最初からカメラを回す場合は、そのことを相手に予め伝えておかないと、機嫌をそこなわれる場合もある。だから、最初の挨拶を、インタビューが終わったあとに撮ることが多い。
最後に、前にも指摘したことがあるが、日本の番組をみると、顔にモザイクをかけたものが異常に多い。なぜモザイクをかけるのか、理由がわからないことがある。アメリカのテレビと比べると、日本のそれはモザイクが多すぎるのではないか。また、取材先での光景がテレビに映っているときに、リポーター以外の部分をすべてぼかしている画面になることが多いが、見ていると吐き気を催してくるほど、気持ち悪い画面だ。あまりにも保守的になりすぎているのではないだろうか。